函館は歴史ロマンに彩られた町並みが魅力
北海道の玄関口「函館」エリアの観光音声ガイド

函館エリア紹介
TOURIST Guide編集部
吉川雅子

函館エリア紹介

はこだて
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函館は、人口およそ26万人を抱える札幌、旭川に次ぎ北海道内では3番目に大きな都市です。
地名の由来は、函館山の北斜面にあたる、宇須岸に築いた館の形が、箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになったという説があります。
ペリーの浦賀来航の翌年、1854年に江戸幕府がアメリカと日米和親条約を結んだ際、函館港はアメリカ船舶への物資の補給港として開港し、1858年の日米修好通商条約締結を受けて、国際貿易港を抱える都市に変貌しました。
開港後は異国文化が入り、これまでの日本家屋に混じって、洋風の建物が点在する、異国情緒あふれた美しい街並みの都市となりました。
またレンガ倉庫群が並ぶベイエリアは、響き渡る汽笛の音とともに港町ならではの風情を醸し出しています。
この港に向かっていくつもの坂道が並ぶのも函館独特の景観です。
港から見上げれば、坂道の背後にあるのが函館山。そこから見下ろす夜の市街は、「100万ドルの夜景」とも呼ばれたほどの美しさです。歴史とロマンの港町、さっそく散策です。


函館山ロープウェイ

A 函館山ロープウェイ

五稜郭公園

B 五稜郭公園

五稜郭タワー

C 五稜郭タワー

函館ハリストス正教会

D 函館ハリストス正教会

函館元町

E 函館元町

湯倉神社

F 湯倉神社

函館市青函連絡船記念館摩周丸

G 函館市青函連絡船記念館摩周丸

箱館奉行所

H 箱館奉行所

函館八幡宮

I 函館八幡宮

立待岬

J 立待岬

高龍寺

K 高龍寺

函館市電

L 函館市電

恵山

M 恵山

湯の川温泉

N 湯の川温泉

トラピスチヌ修道院

O トラピスチヌ修道院

函館朝市

P 函館朝市

旧函館区公会堂

Q 旧函館区公会堂

スポット紹介

函館山ロープウェイ

はこだてやまろーぷうぇい

函館山ロープウェイ
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標高334メートル、函館市街の南西に位置する函館山。牛が寝そべる姿に似ているため臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれ、麓から山頂を結んでいるのが、函館山ロープウェイです。
開業したのは1958年(昭和33年)で、当時のゴンドラは定員31人、現在は5代目で125人乗りです。
昼間は港町の全景を、そして夜は、市街の照明が、まるで散りばめた宝石ように輝く夜景に、誰もが目を見張ります。
この函館山は、日清戦争が終結した後から旧陸軍が函館湾の防衛拠点として整備する計画をまとめ、1898年から要塞建設が始まったことで、山全体が軍事機密の対象となりました。
このため一般人の入山禁止だけでなく、写真撮影やスケッチ、さらには話題にすることすらも厳しく制限され、秘密のベールに閉ざされてきたのです。
そして戦後の1946年10月に、ようやく市民に開放され自由に入山できるようになりました。
長期間にわたり一般人の出入りがなかったため、約600種の植物と150種の野鳥が分布・生息する貴重な自然の宝庫となりました。

五稜郭公園

ごりょうかくこうえん

五稜郭公園
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五稜郭は、江戸時代末期に、幕府が北方防衛を目的として築城を計画して1866年に完成しました。
外に向かって突き出した角の部分のことを「稜堡」といい、それが五ヶ所設置されて、星形に見えることから「五稜郭」と呼ばれるようになりました。
その造りは近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造で、異文化を多く取り入れ始めた函館ならではの城ともいえます。
箱館を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争では、旧幕府軍の拠点となり、榎本武揚や土方歳三をリーダーとする陸軍部隊が戦った舞台としても知られています。
戦争終結後の1871年には解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されましたが、1914年には公園として一般開放されました。以来、市民や観光客の憩いの場となっています。
そして築城から100年を記念して1964年に、高さ60メートルの五稜郭タワーが完成し、2006年にはさらに高い107メートルの二代目タワーが誕生しました。
また公園には約1600本の桜が植えられ、桜の名所としても知られています。

五稜郭タワー

五稜郭タワー

五稜郭タワー
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五稜郭タワーは、五稜郭築城100年目の1964年に完成され、2006年(平成18年)に老朽化により解体し、現在のタワーが同年にオープンされました。
高さは107メートル、五稜郭をイメージした五角形の展望台は二階構造で、上部の高さは90メートル、360度で函館市内を見渡せます。
また2階の展望台には歴史回廊があり、五稜郭が完成するまでのプロセスや、幕末明治の激動に運命をゆだねた人物らの生きざまなど、歴史ファンでなくても惹きつけられます。
五稜郭といえば新選組の土方歳三が有名ですが、この展望フロアと1階のアトリウムには土方のブロンズ彫像が鎮座しており、いずれも精悍さとスマートさが漂い、フォトジェニックとしても人気です。
また、冬に行われる「五稜星の夢イルミネーション」では、2,000個の電球で堀の周囲をライトアップして、展望台から見る光の星が、夜景の街・函館に彩を添えています。
積雪があればさらに輝きが増す冬のイベントです。

函館ハリストス正教会

はこだてはりすとすせいきょうかい

函館ハリストス正教会
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函館ハリストス正教会は、1860年にロシア領事館付属聖堂として建立されたのがその始まりで、1861年に赴任した聖ニコライは、この地を始めとして正教を日本全国に宣教しました。
初代聖堂は1907年に起きた大火で焼失し、現聖堂は1916年建立の2代目で正式名称を『主の復活聖堂』といいます。
クーポルと呼ばれる玉ねぎに似た円形の小屋根を備え、鐘塔は八角形というロシア風ビザンチン様式の聖堂で、1983年に国の重要文化財に指定されました。
鐘塔では土日の祈祷や平日でもお祈りの初めと終わりに鐘が鳴らされ、函館山の麓一帯に響く鐘の音は「日本の音風景100選(にほんのおとふうけいひゃくせん)」に認定されています。
市民からは「ガンガン寺(がんがんでら)」という愛称で親しまれており、ロープにつながった大小6個の鐘が引き合うごとに鳴り響く鐘の音が、市民生活に定着していることを窺わせます。

函館元町

はこだてもとまち

函館元町
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1854年のペリー来航に伴って締結された日米和親条約により、函館元町には多くの外国人が住み始めました。
その後、国際貿易港として開港した函館には奉行所が置かれ、函館は行政の中心地と位置付けられるようになりました。元町地区ではロシア、イギリス、フランス、アメリカなど各国の領事館や近代的な洋館、西洋文化の象徴とも言える教会などが多く建ち並び、和洋が入り混じり、異国情緒あふれる街並みです。
元町地区は函館山の麓に位置し、石畳の坂道に沿って建物が並んでいることから「坂の街」とも言われています。
これは相次いだ火災を教訓に、函館山から麓に至る道を一直線にする街づくりによるもので、その結果、坂の上から函館港までまっすぐ見おろせる景観を生みました。
数ある坂の中で最も人気なのが八幡坂です。両脇に街路樹があり石畳の道路先には、函館港の埠頭があり、終航した青函連絡船・摩周丸が見え、夜景と並び函館を代表する景色です。

湯倉神社

ゆくらじんじゃ

湯倉神社
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湯の川町は函館市東部にある道南を代表する温泉地の一つで、その守り神として崇められているのが湯倉神社(ゆくらじんじゃ)です。
言い伝えでは、室町時代中期、ある木こりが湯が湧き出しているのを見つけこれに浸かったところ、病気やケガに効いたので、お礼に小さな祠を祀ったのが湯の川温泉の始まりといいます。
その後、江戸時代初期に難病に苦しんでいた松前藩主(まつまえはんしゅ)が、神様のお告げを受けた母親の勧めで湯治を試すと病がすっかり回復。藩主は感謝を込めて社殿を改装、薬師如来像(やくしにょらいぞう)を安置したことで信仰を集めました。この時奉納した、吊るした太い綱で鳴らす鰐口(わにぐち)は、社宝として今も参拝者の祈りを受け止めています。
境内には狛犬ならぬ兎像が鎮座しています。神社の御祭神(ごさいじん)・大己貴神(おおなむちのかみ)と「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」の伝説に因み、神社創設360年目の2014年に設置されました。力強さがみなぎるこの像は「神兎(なでうさぎ)」と呼ばれ、お参りした後、願い事を託して撫でる参拝者も多いそうです。
兎の石像の奥には境内社として「豊受稲荷神社(ゆたかいなりじんじゃ)」が佇んでいます。7本の朱色の鳥居が、まっすぐに並び神秘的な雰囲気も漂わせています。

函館市青函連絡船記念館摩周丸

はこだてしせいかんれんらくせんきねんかん ましゅうまる

函館市青函連絡船記念館摩周丸
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摩周丸は、本州と北海道を結んでいた鉄道連絡船のうちの一隻です。
1965年に就航した摩周丸は2代目で、初代摩周丸が引退した翌年に高速近代化船・津軽丸型の第5番船として建造されました。津軽丸型連絡船は、函館・青森間の所要時間を、これまでの4時間半から3時間50分に短縮し「海の新幹線」と呼ばれました。
50年以上前につくられた船ですが、あらゆる部分で操船の自動化(コンピュータ制御化)がはかられ、現代のGPSに相当する現在位置測定システムや衝突防止装置も搭載、人間が機器を操作するのは出入港時だけでした。
また、航海速力にも余裕がもたせてあり、20分程度であれば列車の遅れを海上でとりもどすことができました。
1988年青函トンネル開通とともに青函連絡船は終航となりました。
函館港で余生を過ごすように、博物館船となった摩周丸は、現役時代そのままの設備や機材なども公開され、関心を集めています。
実際に運航に携わっていた元船長のガイドツアーも行われており、知られざるエピソードにも驚かされます。昭和の貴重な遺産として後世に伝えたい歴史です。

箱館奉行所

はこだてぶぎょうしょ

箱館奉行所
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箱館奉行所は江戸時代、ロシア軍艦の南下など外国の脅威が高まる中で、北方警備と開港後の対外折衝、いわゆる外交と防衛を兼ねた役割を担っていました。
1803年に初めて函館山の麓に設置しましたが、防衛上の理由などで1864年に五稜郭に新築移転しました。
しかし、箱館戦争で被災したあと解体されたので、建物はわずか7年の短命でした。
戦後、復元の機運が盛り上がり、残った資料や発掘調査など研究とパリのアンティークショップで見つかった奉行所外観の写真が再建の決め手になりました。
屋根瓦の枚数もわかるほどの鮮明さで、五稜郭完成から約140年の時を超えて2010年に同じ場所に、当時の三分の一の規模で甦ったのです。
江戸時代に倣って、木材は東北地方から調達し、建物の特徴である港を監視するための屋根中央から突き出した、高さ16.5メートルの太鼓櫓(たいこやぐら)も忠実に再現されています。
さらに72畳敷の大広間と奥の座敷は、外国要人との会談や接遇に使用するため、格式高い造りになっており、国益をかけた緊張感あふれる交渉シーンが想像できるスポットです。

函館八幡宮

はこだてはちまんぐう

函館八幡宮
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 函館八幡宮は1445年、河野加賀守政通(こうのかがのかみまさみち)が館(たて)の東南に八幡宮を祀ったことに始まり、明治時代になって現在の谷地頭(やちがしら)に移されました。
北海道への移住者が急増していた時期で、物流拠点となる港を抱え、開拓だけでなく航海や漁業の守り神として開拓道民の心の拠り所となり、地域の信仰を集めてきました。
 現在の社殿は大正4年に完成しました。
屋根が複雑に組み合わされ、いくつもの棟がつながっているように見える、聖帝八棟造り(しょうていやつむねづくり)という外観が特徴です。
函館山の豊かな自然に恵まれ、桜の開花時期からは新緑と混じって港の景観がより美しく輝きます。
そして最も盛り上がるのが、年に一度の例祭で、毎年8月中旬に開催する2日間のお祭りで、境内には露店も出そろい賑やかになります。
そして隔年ごとに行うのが神輿渡御(みこしとぎょ)です。
重さ1.5トンの神輿が市民に担がれ市内を練り歩いた後、134段の階段を上る「階段かけのぼり」は、担ぎ手のパワーがさく裂する大迫力。
北国の短い夏を惜しむかのような勇壮な祭りです。

立待岬

たちまちみさき

立待岬
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函館山の南東に突き出ている津軽海峡に面した岬が「立待岬」で、高さ約30メートルの断崖で晴れれば下北半島も見渡せる景観が特徴です。
江戸時代から明治にかけては、沖合を航行する外国船を監視して、函館山要塞を後方から守る砲台陣地として軍事拠点の役割もありました。
石川啄木や啄木と親交があった与謝野晶子の像や歌碑もあり、明治の文学者を惹きつけたこの場所は、ハマナスの名所でもあり、夏になると一角が鮮やかなピンクに彩られます。
一方、函館の夜景が楽しめるポイントとして知られており、沖合で操業するイカ釣り船の漁火は、煌めくような函館市街とは対照的に、水平線上に光り輝く点の連なりはどこか幻想的です。対岸の下北半島のほんのり輝く灯火も旅情を掻き立てる景色で、異国情緒の中心街から少し離れた、荒々しい波が打ち寄せる絶壁は、港町・函館のもう一つの顔と言えます。

高龍寺

こうりゅうじ

高龍寺
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高龍寺(こうりゅうじ)は江戸時代初期、現在の函館駅の北部に曹洞宗の寺院として庵(いおり)が建てられたのが始まりです。その後、大火や自然災害などで度重なる移転を余儀なくされ、1879年に函館山の麓に再建されました。函館に現存する最も古い寺院で、古刹(こさつ)にふさわしい重厚さと格調の高さを兼ね備えています。
僧の伝道・修行と生活の場となる七つの施設である「七堂伽藍(しちどうがらん)」がほぼ揃い、地域住民の生活に深く根差していることも評価され、2012年に10件の建造物が国の登録有形文化財に指定されました。
中でも、参拝者を迎える山門のスケールには圧倒されます。前後4本ずつ、8本の柱で支える八脚門(はっきゃくもん)は、小さなお寺のお堂に匹敵する大きさで、見上げると大小200以上の龍や獅子、鳳凰の彫刻に目を奪われます。
また絢爛豪華な須弥壇(しゅみだん)を抱えた本堂や開山堂は、日々の厳しい修行の場を思わせる凛(りん)とした雰囲気を感じさせます。
建築や装飾は主に、当時日本一の技術を誇った現在の新潟県柏崎市の職人集団が取り組み、旧函館区公会堂の建て替えにも貢献した豪商・相馬鉄平(そうまてっぺい)の寄付も活かされています。

函館市電

はこだてしでん

函館市電
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函館市電は函館市企業局交通部が運営する路面電車で、市民や観光客の利便性に貢献している乗り物です。
東北以北で初めて、札幌より5年も早い1913年に開業しました。現在は2系統、営業路線は10.9キロメートルとなっています。

戦後利用客が増加し、電車事業全盛期となる1960 年代には 12 系統、営業路線は 17.9 キロメートルでしたが、1990年頃になると、バス路線との競合やマイカー普及による乗客の減少などにより路線の大幅な見直しを行い、最盛時と比べ短くなりました。
2系統の運行ですが、函館市東部の湯の川から五稜郭公園前、函館駅前を通り南北に分かれる路線はシンプルで分かりやすく、初めて利用する観光客でも戸惑う心配がありません。
また単なる移動手段としてだけでなく、新旧様々な形式の車両が走る姿は旅行者をはじめ鉄道ファンらを楽しませています。

その1つが、「箱館ハイカラ號(ごう)」と名付けられた、レトロ感あふれる「チンチン電車」です。開業当初に導入された車両の台車をそのまま使用し、明治時代の姿に改造・復元しました。
運転士の他に女性車掌が乗務して車内で専用乗車券を発売する、昔ながらのツーマン運行が好評です。
また、毎年 8 月に開催される函館港まつり期間中は、装飾を凝らした花電車(はなでんしゃ)を運行するなど、地域の顔としてもその役割を発揮しています。

恵山

えさん

恵山
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渡島半島の東端から津軽海峡に飛び出したようにそびえたつのが恵山で、5万年ぐらい前に始まった火山活動で形成されました。
アイヌの言葉で「溶岩が噴出する山」を意味し、1874年の小規模噴火を最後に活動は沈静化していますが、今も八か所の火口から噴煙が上がる活火山です。
標高は618メートルですが、海に面しているため海流の影響で霧が発生しやすい上に、日照時間も短いので、厳しい植生環境は本州の2000メートル級の山に匹敵します。
このため麓を彩るエゾヤマツツジなどの植物群とは対照的に、頂上付近は赤茶けた土や石が続く荒涼とした岩場となっています。しかし晴れると周囲の絶景が広がり、北には北海度の名峰・羊蹄山、東に日高山脈、そして南は津軽海峡から下北半島まで望め北海道の雄大な自然を眺望できます。
山頂へのアプローチは、登山口から直接登ればおよそ2時間半、火口原駐車場まで車で行き、そこから歩くと標高差はわずか310メートル、およそ1時間10分で山頂です。
煙や硫黄の臭いもありますので、安全登山を心がけましょう。

湯の川温泉

ゆのかわおんせん

湯の川温泉
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古くは室町時代から湧き出る湯で病気やケガが治ったという湯治伝説が伝わる、湯の川温泉。本格的に発展したのは、明治時代になってからです。
箱館戦争当時、ここには五稜郭(ごりょうかく)に立てこもる幕府方の野戦病院が作られましたが、軍を率いるリーダーの一人・榎本武揚(えのもとたけあき)は、湯の温度が低く「もっと深ければ熱い湯も出るだろうに」と不満げだったそうです。
この話を聞いた地元の実業家で井戸の掘削(くっさく)を手掛けていた石川藤助(いしかわとうすけ)は、かすかに上る湯けむりを頼りに、見事、水温100度以上の温泉を掘り当てたのです。
源泉はさらに複数個所でも見つかり、瞬く間に宿や商店が建ち並ぶ温泉街が出来上がりました。
現在は20軒余りのホテルや旅館が軒を連ね、年間で函館市内の宿泊者のおよそ半数にあたる130万人を受け入れています。
近くには、気軽に利用できる足湯や津軽海峡の絶景ポイントのほか、熱帯植物園などもあり人気となっています。
特に熱帯植物園では、12月から5月のゴールデンウィークまでの間、ニホンザルが温泉に浸かる姿が見られ、多くの観光客にうけています。
のんびりと温泉に癒されるサルと、それを見てまた癒される人間。ほっこり気分です。

トラピスチヌ修道院

とらびすちぬしゅうどういん

トラピスチヌ修道院
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1898年(明治31年)にフランスから派遣された8人の修道女が設立した日本で最初の厳律シトー会系の女子修道院がトラピスチヌ修道院です。
「トラピスチヌ」という名はフランスの「トラップ修道院」の厳しい規律に従う厳律シトー修道会、修道院の場所の名を取ってトラピスチヌと呼ばれるようになったとされています。建築当時は木造の修道院でしたが、1903年の大嵐で修道院は崩壊。
その2年後に新しくレンガ造りの2階建ての本館正面、聖堂が完成しましたが、1925年に発生した火災で焼失しました。再建を繰り返し現存している建物は、1927年に義援金や各修道院からの寄付金により再建された建物ですが、戒律を重んじるため立ち入りは前庭までという制限があり、クリスマスミサの参加以外は内部を見ることはできません。
半円のアーチ型の窓、レンガ造りの外壁などゴシックとロマネスクの混ざったデザインが印象的な修道院です。

函館朝市

はこだて あさいち

函館朝市
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観光の途中でお腹が空いた、あるいは地域の名物を朝食でという方にふさわしいのが函館朝市です。函館駅にほど近い場所、1万坪の敷地にはイカやウニなど新鮮な海産物から水産加工品、野菜は果物などを扱う250軒の店舗がひしめいています。
戦後は野菜の立ち売りから始まった市場は、地域の台所としてだけでなく、観光客のお腹を満たす場所へと変貌しました。
従来からある路面店に加え、雨や雪の時でも気軽に立ち寄れる「函館朝市ひろば」は、生産者と直接会話できるお店もあり、美味しい食べ方を教えてもらえて試食をしながらの買い物は大変魅力的です。
また、「函館朝市どんぶり横丁市場」では、獲れたばかりの旬の魚介類をその場で調理して食べさせてくれるお店や、出汁と具材に海鮮素材を使ったラーメン店、さらにお土産の直売店もあり、業者の方や大勢の観光客で賑わっています。
ただし、早朝に開店しますが、午後2時~3時には閉店になるお店もありますので、ご注意ください。

旧函館区公会堂

きゅうはこだてくこうかいどう

旧函館区公会堂
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旧函館区公会堂は、函館山の麓で港を見おろす高台にあり、元町公園(もとまちこうえん)に隣接しています。
住民の集会所だった町会所が1907年の大火で焼け落ちた後、1910‎年に建て替えられたものです。
この時、財政面で貢献したのが実業家・相馬哲平(そうまてっぺい)でした。
住民の寄付とは別に相馬が寄付した金額は5万円(現在の10億円以上)にのぼり、総工費のなんと8割以上を負担したといいます。
建物の大きさは約2,000平方メートル。3つの車寄せが並んだ左右対称の洋風建築で、青みがかった灰色と黄色の縁取りをした外観は、洋館が建ち並ぶ街中でも特に際立っています。
外国人の指導を受けずに建てられたこの建物内部には、和風の装飾がさりげなく施されており、その技術は今も高く評価されています。
また2階にある400平方メートルの大広間では、要人が集まる舞踏会なども催され、国際都市函館を象徴する場所でもありました。

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