江戸から明治へ 激動の歴史を戦った白虎隊のまち
会津若松エリアの観光音声ガイド13選
会津若松エリア紹介
福島県の西部、会津地方の中心都市である会津若松市。江戸時代には、会津藩の城下町として栄えました。
幕末にかけては、薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩を中心とする徳川旧幕府軍との戦い、いわゆる戊辰戦争の舞台となり、日本が各地の藩による自治から政府による統治へと大きく転換するきっかけとなりました。
この戊辰戦争において会津藩が組織した、16歳から17歳の少年らによる部隊、白虎隊の存在は街のシンボルとなっており、彼らが壮絶な戦いの末に自決した飯盛山をはじめ、街のいたるところにその足跡をたどることができます。
会津藩が拠点としていた鶴ヶ城の城内には、世界的にも唯一の木造らせん構造の建物「会津さざえ堂」や、会津藩主によって設けられた薬草園をルーツとする庭園「御薬園」 、街なかには、江戸・明治・大正時代のレトロな雰囲気がそのまま残る「七日町通り」があり、会津に古くから伝わる伝統工芸品や、400年ちかく続く老舗酒蔵の銘酒などを楽しむことができます。
街のいたるところに残る歴史の蓄積を感じながら、あらゆる時代を通じて生み出された発想の豊かさを感じることが出来る街、それが会津若松です。
A 鶴ヶ城
B 福島県立博物館
C 御薬園
D 手作り体験ひろば 番匠
E 白虎隊記念館
F 会津さざえ堂
G 七日町通り
H 会津御絵蝋燭掛元 ほしばん絵ろうそく店
I もめん絲
J 阿弥陀寺
K 末廣酒造
L 野口英世記念館
A
鶴ヶ城
つるがじょう
鶴ヶ城は1384年、蘆名直盛(あしな・なおもり)によって開かれました。
江戸時代には会津藩がこの城に拠点をかまえ、幕末にかけてこの地で起こった戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした明治新政府軍からの攻撃に対し、会津藩を中心とした徳川旧幕府軍が1ヶ月間にわたる籠城(ろうじょう)を行いました。
現在の鶴ヶ城は1965年に市民らの寄付によって再建された2代目で、全国の城では唯一となる、赤瓦(あかがわら)の屋根が特徴です。実はこの鶴ヶ城の土台を支える石垣にも、ユニークなエピソードが隠れています。
太鼓門(たいこもん)近くにある石垣には、小さく切り出された石にまじって、直径2メートル、奥行き3メートルもの巨大な石がはめ込まれています。
これは魔除けの意味を持つ鏡石(かがみいし)とされていますが、運搬の際にはあまりの重さに遊女(ゆうじょ)が石の上で踊り、運び手を励ましたことから「遊女石(ゆうじょいし)」の別名も持っています。
B
福島県立博物館
ふくしまけんりつはくぶつかん
福島県立博物館は、1986年、鶴ケ城公園の一角に開館しました。
会津、浜通り、中通りと3つの大きな文化圏をもつ福島県の特徴ある歴史や文化の背景を未来に伝えるべく、古代から現代にいたるまでの考古資料や民俗資料、自然資料を所蔵、展示しています。
なかでも注目されているのが、1984年に福島県北部の伊達市(だてし)梁川町(やながわまち)で発掘された、およそ1500万年前の哺乳類、パレオパラドキシアの化石。これは世界的にも珍しいことに、頭の部分まで完全なかたちで残されています。
所蔵品を中心に特別公開の資料などを1点から紹介する「ポイント展」と呼ばれる展示も行われており、さまざまな角度から福島県の文化を深く学ぶことができます。
2011年の東日本大震災以降は、震災によって引き起こされた出来事や、被災した場所に関する資料も積極的に公開しており、人々が地域の課題を調査、研究する施設としての役割も担っています。
C
御薬園
おやくえん
鶴ヶ城の東側に位置する御薬園(おやくえん)は、国の名勝(めいしょう)に指定される日本庭園です。1432年、室町時代の武将、蘆名盛久(あしな・もりひさ)が、効能をもつ泉「霊泉(れいせん)」が湧き出るこの地に立てた別荘がはじまりとされています。
江戸時代の1670年には会津藩の2代藩主、保科正経(ほしな・まさつね)が領民を疫病から救うため庭園内に薬草園を作り、続く3代藩主、松平正容(まつだいら・まさかた)も高麗人参(こうらいにんじん)を植え、その栽培を民間にひろく推奨しました。
御薬園(おやくえん)という名前は、こうした歴史にちなんで名付けられたものです。
園内にはモミ、スギ、マツの大樹(たいじゅ)をはじめ、キャラボク、ゴヨウマツなどの木々が植えられ、回遊路(かいゆうろ)で結ばれています。
庭園からは標高863メートルの背炙山(せあぶりやま)が見渡せ、この眺めもふくめて庭園の景色とする、いわゆる借景(しゃっけい)と呼ばれる手法が取り入れられています。
園内では各種薬草茶が販売されている他、かつての藩主が使用していた御茶屋御殿でお抹茶をいただくこともでき、これを楽しみに訪れる人も多くいます。
D
手作り体験ひろば 番匠
てづくりたいけんひろば ばんしょう
手作り体験ひろば 番匠(ばんしょう)は、会津地方を代表する民芸品、「あかべこ」を製造している施設です。
「あかべこ」とは東北地方の方言で「赤い牛」を意味し、その見た目も牛をかたどったものとなっています。
胴体から突き出た首は、振り子になっており、上下左右に繰り返し揺れるその愛くるしい表情が広く人々に愛されています。
その由来は諸説あり、平安時代に蔓延した疫病を追い払った赤い牛にちなんだという説、かつて会津地方を襲った地震によって倒壊した寺院、円蔵寺(えんぞうじ)の虚空蔵堂(こくうぞうどう)の再建に活躍した赤い牛にちなんだという説があります。
真っ赤に塗られたその体は魔除けの意味を持ち、胴体に大きくあしらわれた斑点は、かつての伝染病である天然痘(てんねんとう)を表しています。
かつて会津地方に天然痘が蔓延したとき、あかべこを持っていた子どもは病気にかからなかったという言い伝えも残されています。
手作り体験ひろば 番匠(ばんしょう)では、熟練の職人による製作風景を見学できるほか、実際に「あかべこ」作りを体験することもできます。
E
白虎隊記念館
びゃっこたいきねんかん
白虎隊記念館(びゃっこたいきねんかん)は、1956年、会津若松市出身の弁護士、早川喜代次(はやかわ・きよじ)氏によって創立されました。
江戸時代から明治時代をまたぐ1868年から1869年、会津藩を中心とした徳川旧幕府軍と薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした明治新政府軍との戦い、戊辰戦争(ぼしんせんそう)において組織された白虎隊(びゃっこたい)を中心に、会津藩に関する史料を数多く展示しています。
白虎隊は、戊辰戦争において会津藩が組織した、16歳から17歳の少年らによる部隊です。
当初、彼らは城の警備を担っていましたが、戦況の悪化にともない、最前線での戦闘に駆り出されることとなります。
彼らは会津の地を守りぬくべく、身を呈して戦い続けましたが、苦戦のすえ1868年8月23日、会津の街を見渡す飯盛山(いいもりやま)で自刃。その若い生涯を閉じました。
館内では白虎隊のひとり、津川喜代美(つがわきよみ)による直筆の手紙や、会津の画家、佐野石峰 (さの・せきほう)による「白虎隊自刃之図(びゃっこたいじじんのず)」が展示され、その悲劇の歴史を現代に伝えています。
F
会津さざえ堂
あいづさざえどう
会津さざえ堂は、1796年、会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5メートル、六角三層(ろっかく・さんそう)のお堂です。
正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といい、その独特な螺旋状(らせんじょう)の構造から、「さざえ堂」の名前で親しまれています。世界的に見ても、二重螺旋構造をもつ木造建築物は、ここ「会津さざえ堂」ただひとつしかありません。
江戸時代まで、内部には、近畿2府4県と岐阜県にまたがる霊場(れいじょう)「西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)」の観音像が安置されており、参拝者はこのお堂をまわることで、いちどに三十三所の観音様をお参りすることができたそうです。
正式名称である「円通三匝堂」の「三匝(さんそう)」という言葉は「3回めぐる」という意味で、参拝者が堂のなかを上りに1回転半、下りに1回転半、合計3回転する様子を表しています。中を通る通路は一方通行になっていて、お堂に入る人と出てくる人がすれちがうことなく、安全にお参りすることができます。
こうした珍しい建築様式が評価され、1995年に国の重要文化財に指定されました。
G
七日町通り
なのかまちどおり
七日町(なのかまち)通りは、会津若松市大町(おおまち)一丁目から、七日町駅にかけて、およそ1kmにわたる通りです。かつてこの街で毎月7日(なのか)に市が開かれていたことから「七日町」、転じて「七日町通り」と名付けられました。
江戸時代には会津若松と越後、現在の新潟県を結ぶ「越後街道(えちごかいどう)」の一部であったほか、現在の山形県へ通じる米沢街道(よねざわかいどう)、現在の栃木県へ通じる下野街道(しもつけかいどう)とも交わっており、問屋や、現在の旅館にあたる旅籠(はたご)など、商業や旅の要所として栄えました 。
とくに旅籠にいたっては、明治時代初期までに30軒もの数が軒を連ねていたといいます。明治時代以降も大正、昭和と、七日町通りは会津いちの繁華街として多くの人々に親しまれました。いまも通りには、会津若松市の歴史的景観指定建造物にも指定される白木屋漆器店(しろきやしっきてん)、城下町、会津の基礎を築いたキリシタン大名、レオ氏郷(うじさと)にまつわる史料を集めた「レオ氏郷記念館」など、その当時を思わせるレトロな建築を多く目にすることができます。
H
会津御絵蝋燭掛元 ほしばん絵ろうそく店
あいづおんえろうそく かけもと ほしばんえろうそくてん
ほしばん絵ろうそく店は、1772年創業の老舗ろうそく店です。
江戸時代より、会津藩おかかえの職人として、会津地方を代表する伝統工芸品、会津絵蝋燭(あいづ・えろうそく)を九代にわたって作り続けています。
会津絵蝋燭は、和紙と灯芯草(とうしんぐさ)の幹で作った芯に溶けた蝋をくりかえし浸して作った蝋燭を、藍染めで書く絵を付けることで作られます。
その歴史は600年以上と古く、室町時代中期の会津領主(りょうしゅ)、蘆名盛信(あしな・もりのぶ)がウルシの栽培を奨励した際、ウルシの実から採れた蝋で蝋燭(ろうそく)を作ったことがはじまりとされています。
江戸時代には最高級の献上品として参勤交代のたびに江戸に持参されたほか、冠婚葬祭や、夜中に大勢の客を招いて行う祝宴(しゅくえん)の際、その華やかな絵柄とともに、場を明るく盛り上げる存在として重宝されました。店内では、事前予約制で会津絵蝋燭への絵付けを体験することができます。
I
もめん絲
もめんいと
もめん絲(いと)は、会津の伝統工芸品「会津木綿」の専門店です。会津木綿は1593年ごろ、会津の領主で、キリシタン大名「レオ氏郷(うじさと)」としても知られる蒲生氏郷(がもう・うじさと)によって行われた産業振興事業をきっかけに誕生し、明治時代末期から大正時代にかけて最盛期を迎えました。
タテ糸を小麦でんぷんの液に付けて固く糊付けし、その後ヨコ糸を編み込んでいくという独特の方法で作られます。
糊付けによって生まれた小さな節(ふし)が糸の間に空気の層をつくることで、湿気や水分を吸収しやすく、ふっくらした感触と優れた保温性が特徴です。
織物に用いられる柄は、赤や緑など、鮮やかな色使いの縞柄(しまがら)が多く、その華やかな見た目が、手に取る人の目を楽しませてくれます。
これは、初代会津藩主である加藤嘉明(かとう・よしあき)がかつて治めていた伊予国(いよのくに)、現在の愛媛県で織物職人が用いていた「伊予縞(いよじま)」という技術の影響を受けていると言われています。
J
阿弥陀寺
あみだじ
阿弥陀寺(あみだじ)は、会津のメインストリート、七日町(なぬかまち)通りの一角にある、浄土宗(じょうどしゅう)の寺院です。
1603年、時の領主、蒲生秀行(がもう・ひでゆき)より土地をもらい受けた僧侶、良然上人(りょうねん)によって開山(かいざん)されました。
1868年から1869年に起きた戊辰戦争(ぼしんせんそう)では寺の建物が焼け落ちる被害を受け、1870年に会津藩の拠点、鶴ヶ城(つるがじょう)の天守閣にあたる「御三階(おさんがい)」と呼ばれる建物を移築。仮の本堂としました。
この御三階、外からは3階建てに見えますが、中にはいると4階建てという特殊な構造をしており、鶴ヶ城にあった際は秘密会議の場所としても使用されていたのではないか、と考えられています。
境内には、幕末に会津の地で繰り広げられた、会津藩と新政府軍との戦い、「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」によって命を落とした、およそ1300名にのぼる会津藩士たちの亡骸(なきがら)が埋葬されており、いまでも春と秋の彼岸には供養会が行われています。
元新選組(しんせんぐみ)三番隊組長、斎藤一(さいとう・はじめ)の墓も、この阿弥陀寺にあります。
斎藤は戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、「会津を見捨てることはできない」と、同行の土方歳三(ひじかた・としぞう)に告げ、会津に留まったといわれています。江戸時代から明治、大正時代と動乱の歴史を生きた彼の墓前には、いまも多くの参拝者が訪れます。
K
末廣酒造
すえひろしゅぞう
末廣酒造は、会津のメインストリート、七日町通りから少し入ったところにある、江戸時代から続く老舗の酒蔵。大吟醸「玄宰(げんさい)」「末廣(すえひろ)」や、純米大吟醸「ゆめのかおり」などの酒で知られ、なかでも「末廣」は大正7年に宮内庁御用達(くないちょう・ごようたつ)にも指定された銘酒です。敷地5つの土蔵造りの蔵をはじめ、建物の多くは1850年の創業当時の面影を残しており、その大部分は国の登録有形文化財、会津若松市歴史的景観指定建造物に指定されています。天井の高い、開放感あふれる蔵をそのまま活かした「蔵ミュージアム」では、酒造りの工程を無料で見学できるほか、日本酒の試飲コーナーも用意されています。1892年に建てられた蔵を活かしたカフェ「杏(きょう)」では、末廣酒造で作られた日本酒をつかったスイーツや、仕込み水を使って入れた、まろやかな味わいの水出しコーヒーなど、歴史ある酒蔵の魅力があふれるメニューを楽しむことができます。末廣酒造を経営する末廣家は会津ゆかりの偉人、野口英世とも縁が深く、見学コースでは直筆の書を見ることができます。
L
野口英世記念館
のぐちひでよきねんかん
野口英世記念館は、福島県猪苗代町出身の世界的な細菌学者、野口英世の生涯、そして数々の研究実績に関する資料を集めた記念館です。
野口氏は、幼少期に家の囲炉裏で負った大やけどが手術によって回復したことをきっかけに医学を志し、黄熱病(おうねつびょう)や梅毒(ばいどく)の研究に取り組みました。
ノーベル生理学・医学賞の候補に3回名前があがるほど、その実績は世界的に注目されていましたが、1928年、現在のガーナ共和国で黄熱病の研究中に自身も感染し、志半ばにして51年の生涯を閉じました。
記念館の敷地にあり、国の登録有形文化財にも指定されている生家(せいか)は当時のままの状態で残されており、野口氏が実際に大やけどを負った囲炉裏(いろり)や、上京のさいに「志を得ざれば再び此の地を踏まず」とその決意を刻みつけた柱も、当時のまま残されています。
記念館の2階には、アメリカで研究を行っていた38歳当時の野口氏を再現したロボットが展示されており、表情や肉声を体験することができます。