幕末の歴史を感じる酒どころ
「伏見桃山」エリアの観光音声ガイド
伏見桃山エリア紹介
京都伏見(きょうと ふしみ)は秀吉が築いた伏見城の城下町で、日本有数の酒どころだけでなく、幕末の志士(しし) 坂本龍馬が活躍した歴史の地としても非常に有名です。万葉集にも詠まれた風光明媚(ふうこうめいび)な地で、平安時代には貴族の別荘地となり、その後も院政・応仁の乱・寺田屋事件・鳥羽伏見の戦いなど、歴史の表舞台にたびたび登場します。伏見の名前は「伏水(ふしみず)」に由来し、清らかな水がわき出る御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が有名で、上質の地下水に恵まれていたことで酒造業が発達し、伏見城の外堀(そとぼり)は格好の運搬路となりました。
伏見の町には古い酒蔵(さかぐら)と町家(まちや)が並び、月桂冠大倉記念館(げけいかん おおくらきねんかん)では酒造りの珍しい資料を見ることができます。また、坂本龍馬の定宿(じょうやど)だったことで有名な船宿「寺田屋」も健在です。
A 御香宮神社
B 鳥羽伏見の戦い弾痕
C 竜馬通り商店街
D 寺田屋
E 西岸寺(油懸地蔵)
F キザクラカッパカントリー
G 月桂冠大倉記念館
H 十石舟・三十石船
I 三栖閘門
J 伏見桃山陵(桃山御陵)
K 城南宮
L 藤森神社
A
御香宮神社
ごこうのみやじんじゃ
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ) は、伏見七名水(ふしみ しちめいすい)の御香水(ごこうすい)が湧き上がる安産祈願の神社として有名です。「日本名水百選(にほんめいすい ひゃくせん)」のひとつにも選ばれており、有名な伏見の酒造りの水は、同じ水脈のものが使われているため、近年では水を汲みに訪れる参拝客も多くなっています
御香宮神社の社伝によると、862年に境内からとても香りのよい水が湧き出し、病人が飲んだところたちどころに回復したことから、清和天皇より『御香宮』の名を賜ったと伝えられています。主祭神は、日本第一安産守護之大神(にほんだいいちあんざんしゅごのおおかみ)として広く崇められている神功皇后(じんぐうこうごう)で、伏見の産土神(うぶすながみ)として古くから信仰されており、ご利益としては安産・子育て・厄除け開運があります。
趣きのある境内には、諸芸上達(しょげいじょうたつ)や金運向上にご利益があるといわれる弁財天を祀る弁天社(べんてんしゃ)や、お酒の神様を祀る松尾社(まつおしゃ)があります。重要文化財に指定されている本殿は、紅葉(こうよう)で美しく彩られる時期が見どころです。また、表門は1594年に豊臣秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の大手門(おおてもん)の遺構で、近年本殿が修復されて鮮やかな極彩色(ごくさいしき)が蘇りました。
B
鳥羽伏見の戦い弾痕
とばふしみのたたかいだんこん
幕末の1868年(慶応4年)1月に始まった「鳥羽伏見の戦い」は、鳥羽と伏見で行われた薩長連合の新政府軍と旧幕府軍の戦いです。
江戸幕府の大政奉還後、朝廷は王政復古の令を出し、第15代将軍 徳川慶喜の辞官納地(一切の官職と幕府領の返上)が決定されました。
それに激怒した幕府軍が、京へと攻め上(のぼ)ります。
新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ちますが、伏見では北に新政府軍、南に旧幕府軍の会津藩と新撰組が陣取り、一大市街戦が展開され、その結果、旧幕府軍は敗れて大阪方面に退却。
この戦乱で、伏見の街の南半分が焼失、街は焼け野原となりましたが、この中で焼失を免れた京料理屋「魚三楼」は今もなお続く老舗のお店であり、その表格子には今も当時の弾痕が残っています。
C
竜馬通り商店街
りょうまどおりしょうてんがい
竜馬通り商店街(りょうまどおりしょうてんがい)は、坂本竜馬で有名な寺田屋からすぐ東の蓬莱橋(ほうらいばし)の北詰(きたづめ)から北側の通りになります。京町屋風の外観とレトロな雰囲気が観光客に人気で、かつての幕末志士も駆け抜けたことを想像させる道並みと、石畳やガス灯風の街路灯、京町家風(きょうまちやふう)の外観がその当時の雰囲気を醸し出し、地元の方をはじめ伏見を訪れる観光客に愛されています。
1594年に豊臣秀吉が伏見城を築いた際、中書島(ちゅうしょじま)につくられた遊郭が商店街の成り立ちといわれており、遊郭で働く遊女たちに着物や日常雑貨を販売する店が、お互いに協力し合いながら発展させてきたのが今の商店街の原形となっています。
現在では、1994年(平成6年)にそれまでの南納屋町商店街(みなみなやまちしょうてんがい)を「竜馬通り商店街」と名称変更して振興組合(しんこうくみあい)を設立、通りを「幕末回廊(ばくまつかいろう)」とする環境整備を計画して、1996年(平成8年)から石畳舗装や街路灯の建設、和風の統一看板の設置や外壁(がいへき)を京町屋風に作り替える整備事業が始まり、地元有識者の指導もあり魅力的な街づくりが進められ今に至ります。
D
寺田屋
てらだや
寺田屋は、船付場(ふなつきば)を持つ船宿(ふなやど)でした。幕末に起こった2つの「寺田屋事件」の舞台として有名ですが、1つ目は1862年4月に有馬新七(ありましんしち)を中心とした薩摩藩の過激派志士がこの寺田屋に集まり決起を企てた際、薩摩主の父 島津久光(しまづひさみつ)に弾圧された「寺田屋騒動」、そして2つ目が1866年1月に薩長同盟の斡旋をした坂本龍馬が伏見奉行所の役人に襲撃された「龍馬襲撃事件」です。
奇しくも幕末の激動を象徴する出来事があった寺田屋も後世に名を残すことになりました。しかし龍馬襲撃事件からわずか2年後、徳川幕府の崩壊につながった鳥羽・伏見の戦いに巻き込まれ寺田屋も火災などの被害を受けました。その後、全壊を逃れた建物に補修・修復を重ね、今に受け継がれています。建物は、史跡博物館を兼ねた旅館として現在も宿泊が可能です。屋内には、龍馬襲撃事件のとき、気配を察知した龍馬の恋人「おりょう」が入浴中だった風呂場や、龍馬に伝えようと駆け上がった階段が修復され往時の姿を目にすることができます。
寺田屋の庭には「薩摩九烈士碑 (さつまきゅうれっしひ)」という大きな石碑がありますが、これは1862年の寺田屋騒動で犠牲になった薩摩藩の志士を顕彰(けんしょう)するために建てられたものです。
E
西岸寺(油懸地蔵)
さいがんじ(あぶらかけじぞう)
西岸寺(さいがんじ)は、1590年に雲海上人(うんかいしょうにん)によって創建されました。別名『油懸地蔵(あぶらかけじぞう)』と言われ、その由来は、むかし山崎(やまざき)の油売りがこぼした油の残りを地蔵尊にかけて供養し行商に出たところ、商売が大いに繁盛したといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うと信じられ、人々からの信仰を集めています。商運を願って訪れる人々によって油がかけられ黒光りしている地蔵尊(じぞうそん)をぜひご覧下さい。境内には松尾芭蕉が訪れたときに詠んだ『わが衣(きぬ)に ふしみの桃の 雫(しずく)せよ』の句碑(くひ)もあります。なお、同じ伏見区内の深草(ふかくさ)にある西岸寺とは別の寺院です。
F
キザクラカッパカントリー
キザクラカッパカントリーは、日本酒メーカーとして知名度の高い「黄桜株式会社」が運営する資料館およびレストランです。資料館は、大正時代から続く黄桜の歴史や酒造り(さかづくり)の工程などお酒に関する資料を展示・紹介した「黄桜記念館」と、古くから日本人に親しまれてきた河童の起源や歴史・伝承などをわかりやすく解説し、意外と知られていない河童に関する資料を展示した「河童資料館」があります。レストラン「黄桜酒場(きざくらさかば)」では、京都で初めての地ビールである「京都麦酒(ばくしゅ)」の出来立てを飲めるだけでなく、豊富な種類の日本酒と京料理を楽しむことが出来ます。
ここでしか購入できない限定清酒の他、魅力の商品を多数取り揃え、お酒の美味しさ・楽しさを発信している「黄桜商店」もあります。
G
月桂冠大倉記念館
げっけいかんおおくらきねんかん
伏見の町のいたるところで見かける酒蔵(さかぐら)は、伏見の象徴的存在ですが、その中でも古い歴史を誇る酒造メーカーが「月桂冠」です。「月桂冠大倉記念館」は月桂冠が運営する博物館で、酒造りの過程を見学できるだけでなく、酒造りに使われた用具や出荷のための用具、月桂冠の古いラベルやポスターなども展示されており、伏見の酒造りや日本酒の歴史を体感することができます。入場料がかかりますが、日本酒のお土産がもらえるのも魅力の一つです。
見学後は日本酒やワインのきき酒ができるほか、事前予約をすればもろみ発酵の様子なども見学可能です。博物館の建物自体が、月桂冠発祥の地に建つ明治時代の酒蔵を改造して造られているため、歴史的な価値があります。
月桂冠大倉記念館に隣接する内蔵(うちぐら)酒造場内の「月桂冠酒香房(さけこうぼう)」では、但馬流(たじまりゅう)の杜氏(とうじ)が昔ながらの手法で酒を醸しています。蒸米(むしごめ)や発酵によって醸し出される香りがあたりに漂い、酒どころ伏見の雰囲気を一層満喫できます。
H
十石舟・三十石船
じゅっこくぶね・さんじゅっこくぶね
十石舟(じっこくぶね)・三十石船(さんじっこくぶね)は、川の港町である伏見の歴史を伝える観光屋形船(やかたぶね)で、もともとは伏見と大坂を結んで酒や米を運ぶための輸送船でした。現在の「十石舟」は月桂冠大倉記念館の南側から、「三十石船」は坂本龍馬ゆかりの寺田屋近くから発着し、柳並木(やなぎなみき)に挟まれた水面を静かに進みます。所要時間は十石舟が往復約50分間で、三十石船が約40分間の船旅、川沿いに並ぶ酒蔵(さかぐら)や伏見の街並みや四季折々の自然を楽しむことができます。川からゆっくりと眺める伏見の街並みはよりいっそう趣き深く、静かな時間を過ごすことができるでしょう。
I
三栖閘門
みすこうもん
三栖閘門(みすこうもん)は宇治川と濠川の合流点に設けられている閘門(こうもん)です。1929年(昭和4年)に建設され、2ヶ所の閘門ゲート間の水位を調節し、異なった水位の宇治川と濠川を連続させて船を通す施設でパナマ運河と同じ原理になっています。
開業当時は年間2万隻の貨物舟の往来がありましたが、現在は船の運航がなくなり役目を終えました。
2000年に復元、再整備され現在伏見のランドマークの一つとなり、近代日本の産業遺構として国の登録有形文化財に指定され長く保存されることになりました。近隣には三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介する三栖閘門資料館が開設されています。
J
伏見桃山陵(桃山御陵)
ふしみのももやまのみささぎ
伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)は伏見区桃山町古城山(こじょうざん)にあり、1912年(明治45年)7月30日崩御の明治天皇を葬る御陵(ごりょう)です。その場所は、豊臣秀吉の木幡山(こはたやま)伏見城の本丸があった場所といわれており、そのすぐ東には皇后である昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接します。明治天皇は1868年(明治元年)に15歳で即位し、59歳で崩御された122代天皇で、明治天皇の時代に産業・社会・政治・教育・軍事の改革により日本は近代化されました。また明治天皇は和歌を好み、一生のうちに約93,000首を超える和歌を残したといわれています。
明治天皇陵に向かうための階段は、かなりの段数になりますが、頂上にたどり着いてから上がってきた方向に振り向いた景色は非常に見ごたえがあります。
K
城南宮
じょうなんぐう
平安遷都の際、国と都を守る神として都の南に創建されたことから城南宮と呼ばれるようになりました。
「四神相応(しじんそうおう)」の考えに基づいて建てられた京都五社の一角として知られており、北の玄武「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」、西の白虎「松尾大社(まつおたいしゃ)」、東の蒼龍「八坂神社」、中央の「平安神宮」とともに南の朱雀「城南宮」を巡る「京都五社めぐり」は観光客から非常に人気があります。
城南宮は、引越・工事・家相の心配を除く「方除の大社」として人々から仰がれており、家庭円満や厄除・安全祈願・車のお祓いのために全国の参詣者で賑います。
四季折々の花や紅葉が美しい神苑「楽水苑」は、『源氏物語』に描かれた80種あまりの草木が植栽されており、「源氏物語花の庭」と呼ばれています。毎年春と秋の2回行われる「曲水の宴」は、平安の雅を今に伝える古都の風物詩となっており有名な行事です。また、2月中旬~3月中旬に開催される「しだれ梅(うめ)と椿まつり」も人気があり、毎年その華麗な姿を見に多くの拝観者が訪れます。
L
藤森神社
ふじのもりじんじゃ
藤森神社は平安遷都以前から祀られている古社(こしゃ)で、神功皇后(じんぐうこうごう)によって創建された皇室ともゆかりの深い神社です。「勝運(しょううん)」のご利益があるといわれ、「馬」の神社としても有名なことから、騎手をはじめ多くの競馬関係者や競馬ファンが訪れます。また、御祭神の1柱に日本書紀の編者(へんしゃ)で日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)をお祀りしていることから、「学問」の神としても信仰されています。
京都の春の風物詩となっている「藤森祭(ふじのもりさい)」は毎年5月1日~5日まで開催されており、5月5日に行われる「神幸祭(しんこうさい)」では、3基(き)の神輿・武者行列(むしゃぎょうれつ)・鼓笛隊が氏子(うじこ)内を巡行します。また多くの競馬関係者のほか多くの参拝者が訪れることで有名な「駈馬(かけうま)神事」も開催されます。又、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされ、武道や武勇を重んじる尚武(しょうぶ)の精神は、「菖蒲(しょうぶ)」に通じるといわれ、「菖蒲の節句(端午の節句)発祥の地」として知られています。
また、藤森神社はあじさいが有名で境内には2ヵ所の紫陽花苑(あじさいえん)があり、最盛期である6月には延べ1,500坪の苑内には、様々な種類の約3,500株のあじさいが咲き誇り、たくさんの人が見に訪れます。