200メートル級の巨大古墳が勢ぞろい 
「古市エリア」の観光音声ガイド

古市エリア
TOURIST Guide編集部
西貴輝

古市エリア

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古市エリアは、羽曳野市と藤井寺市にまたがるおよそ4キロメートル四方の範囲に、大小様々な古墳が集まる地域です。
かつては130基ほどの古墳がありましたが、そのほとんどが時代にあわせた農地開発や宅地化で潰され、現存する古墳は45基。その内の26基が、2019年に世界遺産に登録されました。
古市エリアの特徴は、墳丘の長さが200メートルを超す大型前方後円墳が多く、そこに天皇陵が複数含まれる点です。
大王級の墓が、狭い範囲にこれほど集中している地域は全国でも稀で、古代においてこの河内地方がいかに重要な拠点であったかがうかがえます。
古墳から出土した発掘品は、藤井寺市立生涯学習センター「アイセルシュラホール」や津堂城山古墳に隣接するガイダンス棟「まほらしろやま」、羽曳野市文化財展示室で展示しています。
規模は小さいものの、それぞれ足を運ぶ価値のある内容です。また、このエリアには、梅の名所として知られる道明寺天満宮や、奈良時代創建の古刹、葛井寺など、由緒正しい寺社仏閣も点在。大阪の中心部から離れている分、静かに落ち着いて参拝できます。


允恭天皇陵古墳(市野山古墳)

A 允恭天皇陵古墳(市野山古墳)

鍋塚古墳

B 鍋塚古墳

仲姫命陵古墳(仲ツ山古墳、仲津山古墳)

C 仲姫命陵古墳(仲ツ山古墳、仲津山古墳)

古室山古墳

D 古室山古墳

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)

E 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)

墓山古墳

F 墓山古墳

白鳥陵古墳(前の山古墳)

G 白鳥陵古墳(前の山古墳)

津堂城山古墳

H 津堂城山古墳

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」

I 史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」

仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)

J 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)

藤井寺市立生涯学習センター(アイセルシュラホール)

K 藤井寺市立生涯学習センター(アイセルシュラホール)

葛井寺

L 葛井寺

誉田八幡宮

M 誉田八幡宮

道明寺天満宮

N 道明寺天満宮

スポット紹介

允恭天皇陵古墳(市野山古墳)

いんぎょうてんのうりょうこふん(いちのやまこふん)

允恭天皇陵古墳(市野山古墳)
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允恭天皇陵古墳は、5世紀後半に造られた前方後円墳で、全長は230メートル。市野山古墳とも呼ばれています。今日(こんにち)、古墳は住宅などに囲まれ、拝所(はいじょ)がわかりにくくなっていますが、北西の国道170号線沿いに入口があり、柵の側に立つ石碑がその目印です。
允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子で、履中天皇や反正天皇を兄にもちます。ふたりの兄が崩御すると、皇位継承をすすめられますが、持病を理由に断り続けました。しかし、妻に押し切られてついに即位。病は、新羅(しらぎ)からきた医者のおかげで見事に治ったと伝わっています。
ここが允恭天皇陵だと定められたのは幕末のことで、それまでは管理が行き届かず、江戸後期には綿畑(わたばたけ)に利用されていました。1795年の春にこの地を訪れた俳人 小林一茶は、「市野山は綿毛で墳丘一帯は真っ白であった」と、「西国紀行」に記しています。

鍋塚古墳

なべづかこふん

鍋塚古墳
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鍋塚古墳は、5世紀前半に造られた方墳です。
方墳とは、上から見ると四角い形の古墳のこと。決して線で引いたような真四角ではなく、地上から見るとむしろ円のようにも見えるのは、気の遠くなるような歳月のなせる業かもしれません。
以前は、古墳全体が木々に覆われたひとつの森でしたが、現在は芝生の小山となっており、フェンスもなく自由にのぼることができます。
頂上から南西に見える大きな緑の森は、仲姫命陵古墳。鍋塚古墳はこの仲姫命陵古墳に付随する古墳だと考えられています。
この辺りにはほかにも、允恭天皇陵古墳をはじめ、唐櫃山古墳、古室山古墳など、非常に多くの古墳が集中しており、そのなかに、「沢田の七ツ塚」と呼ばれる中・小あわせて7つの古墳がありました。しかし、戦後の宅地開発で次々と消滅。唯一国の史跡に指定され、現在まで残されている古墳こそ、この鍋塚古墳です。

仲姫命陵古墳(仲ツ山古墳、仲津山古墳)

なかつひめのみことりょうこふん(なかつやまこふん、なかつやまこふん)

仲姫命陵古墳(仲ツ山古墳、仲津山古墳)
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仲姫命は応神天皇の皇后で、仁徳天皇の母親にあたる女性です。
その陵墓とされる仲姫命陵古墳は、4世紀後半に造られた前方後円墳。仲津山古墳とも呼ばれています。古墳そのものの長さは、290メートル。
濠や堤まで含めると400メートルを超え、できた当初は日本最大級だったのではないかといわれています。
それほど大きな規模でありながら、女性の墓であるとされ、先に亡くなったはずの応神天皇の陵墓がこの古墳より後にできたと考えられることから、ここに眠る人物については、諸説あります。
この巨大な古墳の特徴は、幅が狭く深い濠と、幅広の堤。堤は、北側に走る近鉄線の辺りまであったといえば、それがいかに広く大きなものだったか想像がつくのではないでしょうか。
一方、濠は、深さはあるものの、地理上の理由から、もともと水を溜めることはできなかった、という説が有力です。
また、幅が狭いゆえに墳丘までの距離が近く、木々の状態までよく観察できる点が、ほかの大王墓級巨大古墳との違いといえます。

古室山古墳

こむろやまこふん

古室山古墳
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古室山古墳は、全長150メートルの中型前方後円墳です。築造時期は4世紀後半。
古市エリアでは比較的早い時期にできた古墳で、発掘調査の結果、後円部の頂に石の板がみられることから、竪穴式石槨という埋葬施設があったと考えられています。
また、円筒埴輪のほか、家、盾、「靫(ゆぎ)」と呼ばれる矢を入れるための細長い箱や、冑形といった形象埴輪も確認されました。
かつては濠(ほり)もめぐり、はかなりの規模であったと考えられますが、ここに誰が眠っているかはわかっていません。陵墓には定められておらず、自由にのぼることができます。
地元の人からは「古室山」と呼ばれており、後円部頂上の標高は、およそ39メートル。大変見晴らしがよく、春は梅や桜が咲き誇り、秋は紅葉が美しい憩いの場となっています。

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)

おうじんてんのうりょうこふん(こんだごびょうやまこふん)

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)
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応神天皇陵古墳の築造は、5世紀前半。誉田御廟山古墳、または誉田山古墳とも呼ばれています。山のように大きなその古墳の長さは、425メートル。仁徳天皇陵古墳に次ぐ、国内で2番目の大きさです。
特徴は、東側に食い込むように存在する二ツ塚古墳。先にできたのはこちらの方で、応神天皇陵はあとからこれを避けるように造られたため、濠も堤も屈曲しています。壕や堤の形を歪めてまで、この場所を選んで造られた背景にはどんな事情があったのでしょうか。
一方、古墳の南側に構えているのは、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)。
現代において、陵墓への立ち入りは原則として禁止されていますが、こちらの神社の「お渡り」は例外です。
「お渡り」とは、毎年9月の秋祭りに執り行われる儀式で、この時に限っては、一般の参拝者も古墳の堤まで入ることができる、大変珍しい神事です。
なお、こちらの陵墓には陵墓監区事務所が併設されており、無料で「御陵印」をいただくことができます。「御陵印」とは、寺社の御朱印のようなもので、参拝の証となるスタンプです。

墓山古墳

はかやまこふん

墓山古墳
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墓山古墳は、全長225メートルという大型の前方後円墳です。
築造は5世紀前半。周辺には野中古墳、浄元寺山古墳、西馬塚古墳など中・小規模の古墳が集まっています。
なかでも、東に位置する向墓山古墳は、一辺の長さが60メートルを超す巨大な四角い古墳。ここでは、墓山古墳の外濠に架かる2ヶ所の土橋が発見され、ふたつの古墳に、文字通り密接なつながりがあったことは明らかです。
また、野中古墳や、すでに消滅した西墓山古墳からは、農耕具や武器など大量の鉄製品が出土しました。
このため、複数の立派な陪塚、つまり付属の古墳を大量に、貴重な鉄も所有する有力者であったと推測できます。
一方で、宮内庁は墓山古墳は応神天皇陵の陪塚として管理しています。ただ、これほどの規模を誇る墓が別の古墳に付属するというのは無理があると考えるのが自然でしょう。
なお、向墓山古墳に隣接する羽曳野市文化財展示室では、古市エリアから出土した埴輪や装飾品などを展示。平日に無料で見学できます。

白鳥陵古墳(前の山古墳)

はくちょうりょうこふん(まえのやまこふん)

白鳥陵古墳(前の山古墳)
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白鳥陵古墳は、5世紀後半に造られた前方後円墳です。古墳の長さは、およそ200メートル。特徴は、前方部の幅がスカートの裾のように広がっている点。また、古墳の規模に対して濠が大きく、幅が30~50メートルある広い濠を静かに水が満たす美しい姿が印象的です。
ここに誰が眠っているかは不明ですが、別名を「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみこと しらとりの みささぎ)」ともいい、宮内庁によりヤマトタケルの陵墓(りょうぼ)に指定されています。
日本書紀によると、ヤマトタケルは伊勢で亡くなったのち、白鳥に姿を変え、大和の国の琴弾原(ことひきのはら)、次いで河内は旧市邑(ふるいちのむら)に舞い降りました。このため、現在の三重県亀山市、奈良県御所市(ごせし)、そしてここ、大阪は羽曳野市(はびきのし)に、それぞれ「白鳥陵」が設けられています。
これは、ひとりの人物に対し、三ヶ所の陵墓が定められていること、また、「天皇」ではなく「皇子」の身分で「陵(みささぎ)」の文字が使われているという、非常に珍しい例です。
ちなみに、羽曳野市という名前は、この地に飛来したヤマトタケルが、「羽を曳くように再び飛び去った」という話に由来しています。

津堂城山古墳

つどうしろやまこふん

津堂城山古墳
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津堂城山古墳は、4世紀後半に造られた前方後円墳です。
古墳の長さは、210メートル。かつては二重の濠がめぐる全体で400メートル超えの大型古墳で、後円部の竪穴式石槨からは、「王者の棺」と呼ばれる国内最大級の長持形石棺をはじめ、鏡や武具、勾玉など多くの副葬品が出土しました。
明らかに大王墓級でありながら、室町時代に古墳の上に城が築かれたため、その形は大きく崩れてしまっています。
さらに、濠のほとんどを農地として使われており、明治末期になるまで、ここがこれほどの規模をもつ古墳だとは気づかれもしなかったと言われています。現在、宮内庁はここを允恭(いんぎょう)天皇の陵墓参考地と定めていますが、被葬者には諸説あります。
今日の古墳は、濠の跡地に桜が植えられ、菖蒲園や草花園が季節の花を彩るほか、後円部には津堂八幡神社が鎮座し、非常に親しみやすい憩いの場になっています。
また、北側の「史跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま」では、こちらで発掘された石棺の実物大模型や、天井石が展示されており、無料で見学できます。

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」

しせきしろやまこふんがいだんすとう「まほらしろやま」

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」
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「まほらしろやま」は、隣接する津堂城山古墳を紹介する展示施設で、古墳見学の休憩室を兼ねた案内所としてつくられました。「まほら」とは、「すばらしい場所」を差す古語で、「まほろば」と同じ意味です。
最大の見所は、津堂城山古墳から出土した長持形石棺の実物大模型と、その石棺を覆うように石室の上部に配置されていた、天井石の実物。大型の衝立(ついたて)形埴輪や周辺の遺跡でみつかった土器 も展示されています。また、屋外の屋根にもご注目ください。鯱ならぬ、水鳥がいます。
こちらも、発掘された水鳥形埴輪をモデルにしたもので、本物は国の重要文化財に指定され、藤井寺市立生涯学習センター「アイセルシュラホール」にて見ることができます。
津堂城山古墳は、古市古墳群最古の大王級の墓だと考えられており、この規模の古墳がここまで詳しく調査されることは、非常に稀です。そのため、ここにみられる発掘品と調査結果を見学できることは、大変意義があります。

仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)

ちゅうあいてんのうりょうこふん(おかみさんざいこふん)

仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)
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仲哀天皇陵古墳は、別名「岡ミサンザイ古墳」とも呼ばれ、古墳墳丘だけで245メートルを有する大型前方後円墳です。特徴は、周囲をめぐる非常に幅の広い濠(ほり)。常に満々と水を湛(たた)え、水鳥が集まる憩いの地となっています。
調査の結果、ここは戦国の世に城郭が築かれたため、もともと3段構成だった古墳が4段に変えられていたことがわかりました。その上、幕末に行われた古墳の修繕事業で、さらに5段に増やされたとみられています。ただ、今日(こんにち)の古墳は豊かな木々に覆われ、地上はもちろん、上空から見たところで、改変された様子はわかりません。
仲哀天皇はヤマトタケルの子であり、応神天皇の父とされる人物です。ここに誰が眠っているのか、実際のところは不明で、古墳が造られた年代にも諸説ありますが、最近の研究では5世紀末が有力です。ただ、そうなると、息子である応神天皇の陵墓から何十年も後に造られたことになり、仲哀天皇説は形勢不利な状況です。謎が残る陵墓ではありますが、大王級であることは間違いありません。

藤井寺市立生涯学習センター(アイセルシュラホール)

ふじいでらしりつしょうがいがくしゅうせんたー(あいせるしゅらほーる)

藤井寺市立生涯学習センター(アイセルシュラホール)
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藤井寺市立生涯学習センターで何より目を引くのは、巨大な船に見立てた外観です。これは、この地域にかつて存在した岡古墳から出土した船形埴輪と、同じく市内にある三ツ塚古墳から出土した、「修羅」と呼ばれる木製のそりに着想を得て、デザインされました。
ちなみに、この施設の愛称である「アイセルシュラホール」の「シュラ」も、この木ぞりに由来しています。
主に市民を対象にした施設で、観光向けではありませんが、ここの2階にある歴史展示室は自由に見学することができます。
見どころは、津堂城山古墳から出土した3体の水鳥形埴輪。
建物のモデルとなった船形埴輪も展示されています。
また、発掘現場からそのまま移設した、鉄製品の巨大な埋納施設も必見です。
古市古墳群を取り扱う独立した博物館がない藤井寺において、歴史を学べる貴重な場となっています。

葛井寺

ふじいでら

葛井寺
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葛井寺の創建は奈良時代。西国三十三所の第五番札所(ふだしょ)として、多くの巡礼者が訪れる古刹です。
ご本尊は、国宝の千手千眼観世音菩坐像。千手といっても、手の数は42本が一般的です。
一方、こちらの像はその名の通り1041本の手を有し、各掌には眼が描かれている見事な意匠。普段は扉が閉じられていますが、毎月18日と8月9日の千日まいりの日には、拝観できます。
境内の見所は、 西門にあたる「四脚門」。桃山時代に作られた大変貴重な重要文化財です。
また、弘法大師のお手堀といわれる井戸には、面白い逸話があります。その昔、藤井安基(やすもと)という傍若無人な嫌われ者が、一度は地獄に堕ちたものの、千手観音により命を救われました。その際、この井戸の水を飲むと、目が輝き全身に力がみなぎったというのです。
それゆえ、安基のような「あかん奴」でも救ってくださる。医者や神仏に見離された「あかん時」でも手を差し伸べてくださる、ありがたいお寺として知られるようになりました。なお、命拾いした安基は、その後、荒廃していた伽藍(がらん)の大修理に尽力したという話です。

誉田八幡宮

こんだはちまんぐう

誉田八幡宮
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誉田八幡宮の創建は6世紀。応神天皇をお祀りするために建てた社殿を起源とします。応神天皇は誉田別尊(ほんだわけのみこと)とも呼ばれる、八幡神(やはたのかみ)です。
このため、鎌倉から室町時代にかけては、八幡神(やはたのかみ)を氏神とする源氏を中心に、歴代の将軍や武家から篤い庇護を受けました。現在の社殿は、徳川家により17世紀前半に再建されたもので、屋根瓦などに、三ツ葉葵の定紋(じょうもん)を見ることができます。
境内の見所は、南大門。もともとは、八幡宮に付属する護国寺の門だったもので、江戸時代の神仏習合の名残りです。その側に立つのは、安産社。「安産の木」として知られるエンジュが目印です。
また、宝物館には、古墳時代の鞍金具や源頼朝から贈られた神輿など、国宝・重要文化財が収められており、土曜日に見学できます。
ところで、羽曳野市(はびきのし)を中心とする河内(かわち)地方はぶどうの生産地で、ワインも造られています。
このため、こちらの神社で正月三が日にふるまわれる神酒(みき)は、なんと、ぶどう酒。白い盃に赤いワインが注がれるため、「日の丸神酒」と呼ばれています。

道明寺天満宮

どうみょうじてんまんぐう

道明寺天満宮
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道明寺天満宮といえば、梅。境内にはおよそ80種800本の梅の木があり、春には見事な花を咲かせる梅の名所です。 
この神社の歴史は非常に古く、古墳時代に古代の豪族 土師氏が建てた土師神社に始まります。
やがて飛鳥時代になり仏教が伝わると、その境内に後の道明寺となる、土師寺(はじでら)が建立されました。ここから、土師神社と土師寺は歴史をともに歩むことになるのです。
平安時代には、この土師寺に菅原道真の叔母が住んでおり、その縁で道真公亡き後、「道明寺」と改称しました。これは、道真公の別名「道明」にちなんでいます。さらに、道真公をお祀りする天満宮を創建。
以降、土師神社は「道明寺にある天満宮」として長く親しまれてきました。時を経た1872年(明治5年)、神仏分離によって、道明寺は道を隔てた西側に移転。
土師神社が道明寺天満宮という名前に正式に改称したのは、戦後、1952年のことです。
境内には、もとは本社であった土師神社が、「元宮・土師社」として祀られています。また、宝物館では、道真公の遺品を国宝として保管。毎年期間限定で公開されます。

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