古墳文化の魅力に迫る 世界遺産 百舌鳥・古市古墳群めぐり
「百舌鳥エリア」の観光音声ガイド13選

百舌鳥エリア
TOURIST Guide編集部
西貴輝

百舌鳥エリア

もずえりあ
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大阪南部の堺市に位置する百舌鳥エリアは、2019年に世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」が集まる地域です。
世界遺産は、古墳時代中期にあたる4世紀後半から5世紀後半ごろに造られた49基の古墳からなり、この内の半数が百舌鳥エリアに位置しています。
見所の中心は、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳。
さらに履中天皇陵古墳やニサンザイ古墳など、300メートル級の巨大古墳に加え、中・小規模の古墳も多数点在。
観光案内所では、古墳めぐりに便利な周遊ガイドブックやウォーキングマップを配布しているほか、「堺観光ガイド」のホームページでも複数のモデルコースが提示されています。
古墳の墳丘に登ることはできませんが、堺市博物館では、バーチャルリアリティを利用して古墳内部や全体像を紹介。出土品も展示しています。
また、このエリアには、方角にまつわる災いを退ける方違神社、国宝の拝殿を有する櫻井神社など、歴史ある寺社仏閣も多く、古墳と併せてぜひお立ち寄りください。


仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)

A 仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)

反正天皇陵古墳

B 反正天皇陵古墳

永山古墳

C 永山古墳

履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳)

D 履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳)

いたすけ古墳

E いたすけ古墳

御廟山古墳

F 御廟山古墳

ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)

G ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)

長塚古墳

H 長塚古墳

大仙公園

I 大仙公園

百舌鳥八幡宮

J 百舌鳥八幡宮

方違神社

K 方違神社

櫻井神社(上神谷八幡宮)

L 櫻井神社(上神谷八幡宮)

堺市博物館

M 堺市博物館

スポット紹介

仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)

にんとくてんのうりょうこふん(だいせんりょうこふん)

仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)
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大仙古墳とも呼ばれる仁徳天皇陵古墳は、5世紀前半から半ばにかけて築造された国内最大の前方後円墳です。
墳丘(ふんきゅう)と呼ばれる、土が盛り上がった部分だけでも全長486メートル、外側をめぐる三重の濠(ほり)を含めると840メートルに及び、エジプトはクフ王のピラミッド、中国の秦始皇帝陵に匹敵する規模を誇ります。
仁徳天皇といえば、「民のかまど」という逸話が有名です。「民のかまどより煙が立ち昇らないのは、貧しくて炊くものがないからだ」と、向こう3年に渡り税を免除しました。
このような立派な大王にふさわしい巨大古墳ですが、文字が無い時代に造られたお墓であり、ここが本当に仁徳天皇の墓であるか否か、実は議論の余地が大いに残されています。
古墳はあまりにも大きいため、地上からその全貌をとらえることはできません。
そこで、堺市博物館ではバーチャルリアリティを利用し、空から見下ろした雄大な姿や、石室の内部を鑑賞できる設備を導入しています。
一方、古墳の西側に立つ万葉集の歌碑にもご注目ください。
嫉妬深い女性として知られる仁徳天皇の妻、磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)が夫を慕い詠んだという切ない恋歌(こいうた)が刻まれています。

反正天皇陵古墳

はんぜいてんのうりょうこふん

反正天皇陵古墳
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反正天皇陵古墳は、5世紀前半に造られた前方後円墳で、田出井山古墳(たでいやまこふん)という名でも知られています。全長は148メートル、仁徳天皇陵古墳の3分の1ほどの大きさで、天皇陵としては比較的小さいものです。ただ、古墳は文字が無い時代のお墓であり、実際の被葬者は特定はできません。このため、ここから南へ4キロメートルほど離れたところにあるニサンザイ古墳という大型古墳こそ、反正天皇の陵墓だという説もあります。
その反正天皇とは、仁徳天皇の第3皇子。「古事記」によると、容姿端麗、大変歯が美しく、その身長は9尺2寸半。すなわち見上げるほどの大男だと描かれています。
周辺には、こちらの古墳に付随する鈴山古墳と天王(てんのう)古墳というふたつの小型古墳のほか、方災除けの神さまとして親しまれている方違神社(ほうちがいじんじゃ)があります。

永山古墳

ながやまこふん

永山古墳
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永山古墳は、5世紀前半の築造、全長約100メートルの前方後円墳で、南に構える仁徳天皇陵古墳に付随する古墳として定められています。
その一方で、規模や形から、ひとつの独立した古墳だという見方もあり、百済(くだら)からやってきて、漢字と儒教を日本に伝えた伝説上の人物、王仁(わに)の墓や、ヤマトタケルの墓ともいわれています。古墳は宮内庁が管理しており、詳しいことはまだわかっていません。
周囲は盾型の濠(ほり)がめぐり、かつては民間の釣堀として使われていました。現在、東から北側にかけは空堀となっていますが、西側のくびれ部分では、儀式を行うために設けられた「造り出し」と呼ばれる一角を確認できます。

履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳)

りちゅうてんのうりょうこふん(みさんざいこふん・いしづがおかこふん・もずみささぎやまこふん)

履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳)
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履中天皇陵古墳は5世紀前半に造られた古墳で、上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳、百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)など複数の呼び方があります。全長はおよそ365メートル、日本で3番目に大きい前方後円墳です。外側には盾形の濠と堤がめぐっていますが、かつてはさらにもう一重、幅10メートルほどの濠(ほり)があったことが判明しています。
ここに眠る履中天皇は、仁徳天皇(にんとくてんのう)の第一皇子。ところが、考古学的にみると、履中天皇の古墳は父親の仁徳天皇陵より古いという説があり、謎と矛盾に満ちています。
付属の古墳は、かつては10基前後ありましたが、そのほとんどが消滅。現在残っているものは、北側の寺山南山(てらやまみなみやま)古墳と七観音古墳のふたつのみです。また、隣接する七観山(しちかんやま)古墳も付属の古墳でしたが、実物は失われ、代わりに古墳の形をした人工の山が造られました。その頂上にのぼると、履中天皇陵の森がよく見えます。

いたすけ古墳

いたすけこふん

いたすけ古墳
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いたすけ古墳は、5世紀前半に造られた前方後円墳です。ここに埋葬されている人物や、「いたすけ」という名前の由来は不明ですが、全長がおよそ146メートルと比較的大きく、陪塚(ばいちょう)と呼ばれる付属の古墳もかつては複数存在していたことから、大王を支えた将軍など、主要な身分の人間が眠る墓ではないかと考えられています。
注目すべきは、古墳南側の濠(ほり)に突き出している、半分崩れ落ちた橋です。ここはもともと私有地で、宅地開発の工事のため、1955年に古墳の土を運び出すための橋が架けられました。これを知った若い研究者が古墳の保存を呼びかけ、市民運動に発展。国の史跡に登録されることとなったのです。橋は、市民による文化財保存運動の証。歴史を物語るものとして、朽ちてなお残されています。
ちなみに、ここにはタヌキの家族が住んでおり、橋の上に時折現れるタヌキの愛らしい姿は、地元の人はもちろん、観光客にも人気です。

御廟山古墳

ごびょうやまこふん

御廟山古墳
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百舌鳥エリアのほぼ中央に位置する御廟山古墳は、5世紀前半に造られた、全長約203メートルの前方後円墳です。
古墳の周りには御廟池(ごびょういけ)と呼ばれる濠と堤がめぐり、かつてはその外側にもう一重、濠があったことがわかっています。
また、くびれ部分に突き出した「造り出し」は、何らかの儀式が行われた場所で、そこから塀をかたどった「囲形」の埴輪や、家形の埴輪、土器など様々な遺物が見つかりました。
ここが誰の墓かは不明ですが、仁徳天皇の皇后、または仁徳天皇の父親である、応神天皇の最初の埋葬地だという説があります。
ちなみに、応神天皇陵として宮内庁が管理している場所は、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳であり、こちらは羽曳野市にある古市古墳群の内のひとつです。
周辺には、この御廟山古墳に付属する万代山古墳のほか、百舌鳥八幡宮をはじめとする複数の寺社仏閣が点在しています。

ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)

にさんざいこふん(はぜにさんざいこふん)

ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)
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ニサンザイ古墳は、全長約300メートル、全国で7番目に大きい前方後円墳です。
5世紀後半に造られたこの古墳には、現在一重の濠がめぐっていますが、築造時にはさらにもう一重、濠(ほり)があったことがわかっています。
特徴は、スカートの裾のように大きく広がる前方部。また、後円部では、濠から堤にかけて一直線に伸びる木造の橋の跡が発見されました。
橋は幅約12メートル、長さ40メートルを超す巨大な造りで、資材運搬、或いは何らかの儀式のため、一時的に架けられたものではないかと考えられています。
ここに誰が眠っているかは不明ですが、これだけ大きな規模であることから、大王級であるという説が有力です。
ちなみに、「ニサンザイ」は天皇・皇后の墓所を意味する「みささぎ(陵)」が語源といわれており、反正天皇陵(はんぜいてんのうりょう)の参考地として宮内庁の管理となっています。
なお、大阪には泉南(せんなん)郡にもニサンザイ古墳があり、こちらは淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳と呼ばれています。

長塚古墳

ながつかこふん

長塚古墳
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長塚古墳は、5世紀後半に造られた、全長約106メートルの前方後円墳です。仁徳天皇陵古墳に隣接していますが、その規模や形から、大きな古墳に付随する陪塚(ばいちょう)ではなく、独立した古墳であると考えられています。
現在、周囲は住宅に囲まれており、全体像がわかりづらくなっていますが、かつては墳丘の周りに幅14メートルの濠がめぐっていました。
東側に立っているのは、「仁徳天皇御陵」と「史跡 長山古墳」の石碑です。
「長山古墳」は大正時代に史跡として仮指定されたときの名前で、後に「長塚古墳」に変更されました。
ちなみに、同じ「長山古墳」という名前の古墳が、大仙公園の北西、現在の堺市堺区にありましたが、現在は住宅地となっており、跡形もありません。
なお、仁徳天皇陵の北側にある「永山(ながやま)古墳」は、同音異字でまったく別の古墳です。

大仙公園

だいせんこうえん

大仙公園
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大仙公園は、春は桜に彩られ、秋はイチョウ並木が黄金に染まる、自然豊かな憩いの場です。
一帯は世界遺産となった百舌鳥古墳群が集まる地域で、公園は仁徳天皇陵古墳、履中(りちゅう)天皇陵古墳というふたつの大型古墳に挟まれ、園内にも小さな古墳が点在。
東側に位置する堺市博物館では、バーチャルリアリティで立体的に古墳を体験できる設備を備え、古墳めぐりの前後で多くの人が訪れます。
一方、日本庭園も大きな見所のひとつ。美しい池とそこに架かるふたつの橋、中国の廬山(ろざん)を模した築山(つきやま)が目を引く風光明媚な庭園は、紅葉の名所でもあります。
また、北側には「伸庵(しんあん)」と「黄梅庵(おうばいあん)」という茶室があり、こちらの庭は見学無料。さらに、新旧の自転車がずらりと並ぶ自転車博物館サイクルセンターや、小さな植物園として楽しめる堺市都市緑化センターもあり、堺を代表する公園のひとつです。

百舌鳥八幡宮

もずはちまんぐう

百舌鳥八幡宮
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厄除開運の神として知られる百舌鳥八幡宮は、秋の「ふとん太鼓」が有名です。ふとん太鼓は、赤い座布団を積み上げたような巨大な太鼓台。「月見祭(つきみまつり)」と呼ばれる秋祭りで、数十人が担いで練り歩く、熱気に満ちた伝統行事です。
神社の歴史は非常に古く、創建は6世紀ごろ。八幡神(やはたのかみ)のお告げを受けてこの地を「万代(もず)」と呼び、社(やしろ)を建てたことに起源をもちます。
時を経て平安時代には広大な敷地を有し、大変隆盛を誇りましたが、戦国の世で一時は衰退。その後は、庶民をはじめ、幕府の役人や政治家の厚い信仰を受け、地域の氏神(うじがみ)として親しまれてきました。
境内の見所は、樹齢800年ともいわれる巨大なクスノキ。また、瓦葺きの拝殿、本殿の見事な桧皮葺き(ひわだぶき)にもご注目ください。
いずれも江戸時代の建築で、1971年に改修されたものです。
ちなみに、北側には奈良時代より続く古刹、万代寺(まんだいじ)があります。こちらは明治まで百舌鳥八幡宮の境内にあり、奥の院とも呼ばれていたゆかりの深い寺院です。

方違神社

ほうちがいじんじゃ

方違神社
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方違神社は、紀元前90年の疫病退散祈願に起源をもつ、非常に歴史ある神社です。
ここに方災除けの信仰が生まれたのは、3世紀ごろ。
神功皇后が、「天神地祇」、すなわち天地すべての神をお祀りし、方位からくるあらゆる厄災を退ける祈願をしたことに始まります。
古くから摂津、河内、和泉という3つの国の中心に位置するこの地は、どこの国にも属さない、「方位のない清地(せいち)」。
このため、旅行や転勤をはじめ、方位を侵して建ててしまった家や、その改築、八方塞がりの年回りの厄除けに、多くの人が訪れます。
また、境内の聖なる土と、孤と呼ばれる植物の葉で作った特別な粽は、方位がもたらす災いから身を守る術として、現代に受け継がれています。お守りとしては、方除守、旅行守が有ります。
境内では、2018年に新しく建て替えられた社殿をはじめ、この土地を象徴する「三国丘」の石碑も見所。
また、南西には世界遺産のひとつである反正天皇陵古墳があり、境内からその森がよく見えます。

櫻井神社(上神谷八幡宮)

さくらいじんじゃ(にわだにはちまんぐう)

櫻井神社(上神谷八幡宮)
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櫻井神社の始まりは、古代にこの地で暮らしていた櫻井朝臣(あそん)の一族が、大和朝廷初期に活躍した伝説上の人物、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先として祀ったことに起源をもつといわれています。後の597年には、八幡神(やはたのかみ)が神社の杜(もり)に現れたことで、応神天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)の「八幡三神」を併せてお祀りするようになり、上神谷八幡宮(にわだにはちまんぐう)という別名がつきました。現在、本来のご祭神 武内宿禰は、末社(まっしゃ)である武内神社にお祀りされています。
境内の見所は、国宝に指定されている拝殿。装飾が少ない簡素な造りは、鎌倉時代の建築です。一般的な拝殿は床が張られていますが、こちらは中央が通り抜けできる「割拝殿(わりはいでん)」という造り。祭礼の際には、通路両脇の建具を降ろして床にすることができるようになっています。
また、こちらで秋祭りの際に奉納される「上神谷(にわだに)のこおどり」は、国の無形民俗文化財。絵馬殿には、これにちなんだ赤鬼・黒鬼の巨大なお面が掲げられています。

堺市博物館

さかいしはくぶつかん

堺市博物館
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堺市博物館は、世界遺産の百舌鳥古墳群と、中世に貿易都市として発展した堺に焦点を当てた博物館です。
見所は、仁徳天皇陵古墳を中心とした古墳関連の展示。
明治初期に行われた調査資料をもとに、石棺や出土品の復元模型が集められています。
ほかにも、飛鳥時代の木造観音菩薩立像(りゅうぞう )や、長さ3メートルの巨大な火縄銃、江戸初期の堺の様子が細かく描写された「住吉祭礼図屏風(すみよしさいれいずびょうぶ)」など、ものづくりと商業で発展した堺というまちの成り立ちがよくわかる施設です。

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