能登が誇る伝統漆芸と
庶民の活気あふれる朝市 輪島エリア
輪島エリア紹介
日本海に突き出した石川県能登半島、その北部にあるのが輪島市です。
輪島は中世から明治にかけて日本海を移動する海運ルート上の主要な港町として栄えてきました。
海と緑の自然に恵まれその地形を生かした千枚田(せんまいだ)は、狭い農地を有効活用するため生活の知恵で生まれた棚田の、その景観の素晴らしさが、人を引き付けるようになりました。
親しみやすい雰囲気で気軽に買い物が楽しめる朝市は、1,000年以上前から始まった海産物や農産物の物々交換として始まった歴史あるマーケットです。
また地域が育んだ輪島塗は、「見たことはなくても名前は知っている」といわれるほど有名な伝統工芸で、世界にも知れ渡っています。
日本海は、荒れたときには、海岸に盛り上がった泡が連なる「波の花」と呼ばれる景観を生み、穏やかな時は美しい海岸線が目を飽きさせません。
また平家落人伝説から現代アニメにいたるまで時代にゆかりのある人物伝を残す資料館など幅広い見どころ豊富な街、それが輪島です。
A 輪島朝市
B 輪島キリコ会館
C 曽々木海岸
D 總持寺祖院
E 琴ヶ浜
F 輪島工房長屋
G 永井豪記念館
H 時国家(本家上時国家)
I 猿山岬
A
輪島朝市
わじまあさいち
輪島朝市(わじまあさいち)の歴史は古く、1000年以上前から地元の海産物や農産物を寺社の縁日などに持ち寄り、物々交換の場として始まったようです。
その後、毎月開催日を決め、定期的に行われるようになり明治時代以降に今の形に定着しました。
長さ360メートルの道の両脇に、200以上の露店が並んでいます。店が開くのは7時半前後、地元市民に混じって朝の散歩や買い物目当ての観光客に、威勢のいい呼び声がかかり活気を帯びてきます。扱っているのは、地元の新鮮な海の幸や魚介類の加工品を始め、買い食いもできる総菜やスイーツ、それに土産物や生活雑貨などです。
このような庶民性と豊富な商品が、大きな観光資源にもなってきました。
しかし、大型店の進出や、長く売り子として支えてきた女性たちの高齢化が進み、地域の伝統を社会変化の中にどう生かすかという課題もあります。
とはいえ親しげに話しかけてくる、飾り気のないおばちゃんたちとの会話に引き込まれ、気が付いたら買物しすぎて苦笑いという、そんな楽しい輪島の朝市、輪島の朝の顔として頑張ってください。
B
輪島キリコ会館
わじまきりこかいかん
能登地方には代々伝わる能登キリコ祭りという勇壮な祭りがあります。キリコとは、巨大な直方体の灯篭(とうろう)で、祭礼で練り歩く神輿の進む道を照らす御供役を果たすもので、その目を見張るような大きさと豪華さが特徴です。
毎年7月から10月にかけて行われ、半年間の汚れ落としや疫病退治の願いも込められ江戸時代に始まりました。
輪島キリコ会館は大小30基のキリコを一堂に展示し、映像でも祭りの雰囲気を味わえます。キリコは木枠に和紙を張り、飾りつけを施したものですが、大きいものは台座も含めて2トン近くになり100人前後の担ぎ手が必要です。
一方、祭りは能登全域の集落が個別に行い、地域ごとにキリコの大きさや装飾の違いを楽しめます。展示しているキリコは、最大で高さ10メートル以上でそのスケールに圧倒されます。
またキリコの正面には漢字三文字が記されていますが、これは地域独自の願いや想いを文字に込めたものです。この祭りに、担ぎ手として帰省する人たちも多く、地域ぐるみで伝承する姿勢も評価され、日本遺産として登録されました。
C
曽々木海岸
そそぎかいがん
輪島市の北東から珠洲市(すずし)との境目手前まで伸びている海岸が曽々木海岸(そそぎかいがん)です。打ち寄せる日本海の荒波で岩が浸食され続け、奇岩の造形美ともいうべき光景が海岸沿いに広がっています。その代表格が「窓岩(まどいわ)」です。海に突き出した岩のほぼ真ん中に、大きな穴が開いているのです。
源義経が弓を射って開けたと言いう説もありますが、大自然の力によるものでしょう。
穴はほぼ東西を向いて開いているので季節や角度によってその穴に夕日が納まる瞬間が見られカメラに手が伸びる場所の一つです。
この岩を北上すると見えてくるのが「垂水の滝(たるみのたき)」です。高さ30メートルの断崖から落下した水はそのまま海にそそぐという全国でも珍しい滝で、時折水が霧状になって広がりますが、冬は一転します。強風で落下するはずの水が吹き上げられ「吹上の滝(ふきあげのたき)」とも呼ばれています。
また強い風がもたらすのが海岸に広がる「波の花」です。
打ち寄せる波に含まれるプランクトンの成分が空気を吸い込み泡状になって広がる現象で、荒涼としたイメージの冬の日本海にも、見せ場があるということですね。
D
總持寺祖院
そうじじそいん
總持寺祖院(そうじじそいん)は正式には大本山總持寺祖院(だいほんざんそうじじそいん)、あるいは諸嶽山總持寺(しょがくさんそうじじ)と言い、およそ700年前の1321年に曹洞宗の寺院として瑩山禅師(けいざんぜんじ)によって開かれました。
瑩山は曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖 道元(どうげん)を崇拝するとともに、子弟を育成して、曹洞宗の普及に寄与しました。創建の翌年、瑩山は後醍醐天皇との問答でその力量を認められ、天皇は大本山總持寺として承認する裁可を下したのです。
これにより總持寺は発展しますが1898年(明治31年)の大火で寺院のほとんどが焼け落ちました。
その後に再建されたものの、1911年(明治44年)に大本山の機能が横浜・鶴見にある總持寺に移され、祖院、つまり別院(べついん)となりました。再建後の伽藍や宝物(ほうもつ)の多くが国や県の文化財に指定され、總持寺の変遷をたどることができます。
また瑩山の後継住職の峨山禅師(がさんぜんし)は、50キロメートルほど離れた羽咋市(はくいし)にある永光寺(ようこうじ)の住職を20年間兼ねていました。
このため、往復する峨山の到着を待ちながら読経(どきょう)をゆっくりと行う「粥了諷経の大悲真読(しゅくりょうふぎんのだいしんどく)」というお勤めが600年後の今も続いています。
E
琴ヶ浜
ことがはま
琴ヶ浜海岸は能登半島北西部の日本海に面した海岸でおよそ1.5キロメートルにわたっています。この海岸の上を素足で歩くと「キュッキュッ」と音がすることから、鳴き砂海岸と呼ばれています。
また地元では「漁師の若い男・重蔵(じゅうぞう)と、娘・お小夜(おさよ)の悲恋物語」の言い伝えがあります。
ある日、この浜から漁に出かけたまま戻らぬ重蔵に、悲嘆にくれながら毎日待ち続けたあげく、病にかかって死んだお小夜、しかしその後戻った重蔵が、それを知って泣いた涙が砂に落ちたという言い伝えです。
「泣く」は方言で「ごめく」と言うので「ごめき浜」とも呼ばれています。
実際は砂に含まれている0.4ミリほどの石英と砂が、踏まれた圧力と摩擦で音を出す現象で全国にはおよそ30か所あります。また不純物を含むと音も出にくくなるため、鳴き砂のある海岸はきれいだということになります。
琴ヶ浜海岸は、透き通るような海水と茜色に染まる夕日が評判で、夏は海水浴場としても利用されています。
地元では細かな清掃と、行楽客には細かなごみを散らかさないことなど、理解と協力を求めています。
F
輪島工房長屋
わじまこうぼうながや
輪島が誇る伝統工芸・輪島塗の職人育成と、観光客らとの交流を通じて理解を深めようとしているのが輪島工房長屋(わじまこうぼうながや)です。昔、輪島で大きな火災があり輪島塗に関わる塗師(ぬりし)職人の多くが焼け出されました。
このため、郊外に移転した寺院の跡地に長屋を建て、職人を一堂に住まわせて生活の場を再建しました。その後も職人らが続々と集まり、活気に満ちた場所になったそうです。その長屋が、平成15年に工房長屋として再現されました。
特長は、その名の通りコミュニティ重視です。見学、体験、展示販売、情報発信のスペースが長屋のように並んでいます。磨きと塗りを繰り返すなど100以上の工程をこなすため、根気が求められる職人を育成する職人工房は、話を聞きながら見学できます。
最も繊細な仕上げの上塗り工房では、窓越しの見学ですが、まさに職人芸が作り出す光沢の芸術に目を見張ります。また体験工房では、金粉を施して模様を描いたオリジナルの箸づくりにも挑戦できます。高級感あふれる輪島塗、近寄りがたいという声もありますがご安心を。長屋ですから、敷居の低さが魅力です。
G
永井豪記念館
ながいごうきねんかん
アニメファンなら知らない人はいない漫画家 永井豪(ながいごう)の記念館が出身地・輪島にあります。
記念館は朝市通りに面し、周囲の景観を損なわないような和風建築ですが、手前に来ると躍動感あふれる人気キャラクターの看板が目を引きます。そして中に入れば、高さ2メートルのマジンガーZ、等身大のデビルマンが永井ワールドへのお出迎えです。
永井豪は1945年生まれで、手塚治虫の作品に刺激を受けて漫画家を志し、故・石ノ森章太郎(いしのもりしょうたろう)のアシスタントも務めながら実力を磨いてきました。
そしてデビュー翌年の1968年に発表した「ハレンチ学園」は、漫画週刊誌に4年間にわたり掲載される人気作品でしたが、子供向けにしては過激な内容が、社会で論議を巻き起こしました。
その後もヒット作品を連発し親子二世代でも支持されています。
館内では永井豪の生い立ちや、手掛けた作品の数々をキャラクターも交えて展示しています。また普段は表には出ない貴重な原画も展示しており永井豪ファンにとってはじっくりとどまりたい記念館です。
H
時国家(本家上時国家)
ときくにけ(ほんけ かみときくにけ)
上時 国家(かみときくにけ)は、壇ノ浦の戦いで敗れた、平家の大納言時忠(だいなごんときただ)の末裔です。流刑処分(るけいしょぶん)で、平家の落ち武者として町野川(まちのがわ)流域にたどり着きました。
しかし、もはや平(たいら)の姓を名乗れず、時忠は我が子の名前の時国(ときくに)を姓とし、時国家を名乗り始めたのです。平家の家臣を務めた実力者ゆえ、その能力は商売で花開きました。農耕を皮切りに、能登の農産物や海産物を所有する北前船(きたまえせん)で手広く扱い、時国家は豪商として影響力が強まります。
しかし、この地は幕府方の天領を司る大名・土方家(ひじかたけ)と加賀藩・前田家が複雑に入り組み、かつ両家の微妙な関係から13代藤左衛門時保(とうざえもんときやす)が、1631年(寛永7年)に上・下(かみしも)の両家に分立させました。
上時国家は土方家に近く、豪農のともに地域を治める庄屋を務めてきました。そして江戸時代後期、21代当主によって現在の屋敷が完成したのです。
町野川(まちのがわ)沿いで下流にある下時国家を見下ろすような場所に立ち、高さ18メートルの茅葺き屋根が覆う入母屋造(いりもやづくり)はおよそ190坪、完成までに28年の歳月がかかりました。
城郭や寺院を思わせるような門構えだけでなく、大納言の間と呼ばれる最高級の装飾を施した座敷は、時の前田藩当主も入室をためらったといわれるほどの高い格式でした。
I
猿山岬
さるやまみさき
猿山岬(さるやまみさき)は能登半島最西端にあって、日本でも有数の雪割草(ゆきわりそう)の群生地として知られる一方、崖伝いの道の先にあることから、能登の最後の秘境とも呼ばれています。
海抜は230メートル、日本海の外海に面しているだけに、その豪快な波しぶきは荒々しい日本海を象徴しています。
また海に面した民家はいずれも竹を細かく並べて編んだ「間垣(まがき)」と呼ばれる風よけがあり、季節風から家を囲って守るためで、厳しい自然環境の下にあることを窺わせています。
灯台が大正9年に設置され、今も現役で海上を照らしています。
GPSが活躍する時代ですが、かつては沖合を航行する船舶には灯台の光芒がさぞ心強かったことでしょう。
灯台の周囲は、全長3.4キロメートルの自然歩道が整備されており、なだらかな勾配があってハイキング気分が楽しめます。
沿道には雪割草の群生地があり3月中旬から4月上旬が見頃です。可憐な白や濃淡のピンク、紫の花が一斉に咲きほころび待ちわびた春の到来を告げています。