商店街発祥の地をめぐる
「なんば」エリアの観光音声ガイド

なんばエリア紹介
TOURIST Guide編集部
大岡久仁

なんばエリア紹介

なんば
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なんば戎橋筋は、大阪・ミナミのど真ん中に位置し、北の「グリコの看板」や「かに道楽」で有名な戎橋から、南の高島屋大阪店までを結ぶ商店街で、1日平均20万もの人が訪れます。江戸時代、戎橋筋(えびすばしすじ)を使って今宮戎(いまみやえびす)に向かう参拝客らを目当てにうどん屋や茶屋のような飲食店が集まり発展したことが、今の商店街の起源と言われています。「ミナミ」の名前の由来は、江戸時代、「天下の台所」の船着場の南側に芝居小屋や遊廓がつくられたため、またカタカナ表記になったのは、1954年に雑誌『あまカラ11月号』でルビをふられたものが一般化したためといわれています。
象徴である戎橋は石橋だったことで第二次世界大戦での焼失は逃れましたが、老朽化のため2007年に架けかえられました。阪神タイガースが優勝した時に中継されるスポットとしても有名です。ぶらりと歩きながら昼間の賑わいと、夜の道頓堀に映るロマンティックなネオンの煌めきの、2つのミナミを楽しみましょう。


戎橋

A 戎橋

とんぼりリバークルーズ

B とんぼりリバークルーズ

くいだおれ太郎

C くいだおれ太郎

法善寺横丁

D 法善寺横丁

夫婦善哉

E 夫婦善哉

なんばグランド花月

F なんばグランド花月

大阪タカシマヤ

G 大阪タカシマヤ

スポット紹介

戎橋

えびすばし

戎橋
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大阪ミナミ繁華街のほぼ中央に位置する戎橋は戦前からきらびやかなネオンが光る観光のメッカです。戎橋が架けられたのは、1612年に道頓堀が開削されたのと同時期だと言われています。「戎橋」の名前の由来は諸説ありますが、商売繁盛の神様で有名な今宮戎(いまみやえびす)の参道だったためともいわれています。1878年(明治11年)には時代の移り変わりとともに木橋から鉄橋に架けかえられました。明治20年代に出版された「大阪案内」には鉄橋時代の絵が掲載されており、橋の北東角(ほくとうかど)にあった時計台とガス灯がハイカラの象徴として描かれ、この場所が当時から賑わっていたことがうかがえます。大正時代には橋梁耐震化事業によって石橋になり「大大阪(だいおおさか)」時代におけるミナミの象徴となりました。現在の戎橋の風景となっているネオンサインは、道頓堀行進曲が流行した1928年(昭和3年)は着色電球を使用していましたが、1935年(昭和10年)以降ネオン管が普及し今のようなイルミネーションあふれる風景となりました。
2007年(平成19年)に老朽化のため架け替えられた際、集いの場として親しまれるデザインが採用されました。ミナミの賑わいを眺められる戎橋。ちょっと立ち止まって一望してみましょう。

とんぼりリバークルーズ

とんぼりリバークルーズ
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ミナミの街を歩き疲れたら道頓堀を20分ほどのミニクルーズで楽しむ「とんぼりリバークルーズ」はいかがでしょう。大阪ミナミを川から楽しむクルーズは、観光プランの1つとして普段気がつかない大阪の姿が楽しめます。とんぼりリバークルーズの『とんぼり』は「道頓堀」の略称です。クルーズは太左衛門橋(たざえもんばし)船着場から乗り、日本橋(にっぽんばし)・相合橋(あいあうばし)・戎橋・道頓堀橋・新戎橋(しんえびすばし)・大黒橋(だいこくばし)・深里橋(ふかりばし)・浮庭橋(うきにわばし)をめぐり、太左右衛門橋船着場に戻ってきます。
オープンタイプの黄色い観光船に乗って、べたな大阪弁のクルーが隠れた名所や裏話を面白おかしく話してくれます。戎橋のお好み焼きのコテの形をした欄干や、グリコのネオン、たこ焼き店「たこ家道頓堀くくる」名物の「巨大たこ看板」など川から眺める風景は圧巻。いつもと違う視点で川の上から道頓堀を楽しんでみましょう。

くいだおれ太郎

くいだおれ太郎
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大阪観光の見どころ、道頓堀でお出迎えしてくれる看板人形「くいだおれ太郎」。もともとは飲食店「くいだおれ」の看板息子として活躍していました。
戦後間もない頃の焦土に戦後復興を掲げ「くいだおれ」食堂を創業した山田六郎(やまだろくろう)氏が、子供たちに喜んでもらう、道頓堀を元気にするという意味を込めて道頓堀の文化でもある「文楽(ぶんらく)人形」をモチーフにした看板を作ることを思いつき、谷崎潤一郎の小説『蓼喰ふ虫(たでくうむし)』のモチーフにもなった淡路人形浄瑠璃(じょうるり)の頭を作る職人二代目 由良亀(ゆらがめ)が、文楽人形浄瑠璃の職人として転職したばかりの時に、アルバイトで制作しました。くいだおれは今でいうファミレスの走りであり、くいだおれ太郎は動くマスコット看板の元祖でもありました。くいだおれ太郎を家族として大切にした山田六郎は支店を増やすことも人形を増産することも禁止したと言われています。阪神タイガースの優勝時に道頓堀に投げ込まれそうになり、『わて泳げまへんねん』と先手を打つなど、大阪らしいユーモラスな話題も提供してきました。くいだおれが閉店した今でも、中座くいだおれビルで大阪の街を見守っています。休日は写真撮影に行列ができるほどですが、危機を何度も乗り越えたこの人形のご利益にあやかってぜひ記念撮影をしたいものです。

法善寺横丁

ほうぜんじよこちょう

法善寺横丁
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戎橋筋に交わる横丁には魅力的な横丁がいくつかあります。ミナミの繁華街の中でも代表的なのが「法善寺横丁」。長さ80メートル、幅3メートルの2本の路地が東西に伸びる横丁内には、老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などがずらりと並んでいます。
法善寺横丁は正式名称「浄土宗天龍山法善寺」の参拝道で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したものです。太平洋戦争の空襲で寺も横丁も焼失しましたが、戦後、盛り場として復活。織田作之助(おださくのすけ)の小説「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の舞台として知られ、歌謡曲『月の法善寺横丁』にも歌われました。その法善寺横丁のパワースポットでもあるのが不動尊。第二次世界対戦の戦火をくぐり抜けた不動尊は、願いを込める人たちが掛けた水により全身が緑の苔で覆われています。水はお供えの意味があり、願いを叶えてもらおうという思いで水掛けが行なわれるようになったと言われています。不動明王には大威力があり、難を除き、魔を降伏し、すべての人にわけ隔てなく利益を与えてくれるということから千日念仏(せんにちねんぶつ)が行なわれた寺としても有名で、千日前の地名はこれが由来となっています。
苔だらけの不動尊のお顔は見えませんが、一説によるととても男前とか。法善寺横丁をぶらりと散歩したあとに、不動明王の見えないお顔を想像しながら、願いを込めて水かけをしてみましょう。

夫婦善哉

めおとぜんざい

夫婦善哉
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法善寺横丁は法善寺参拝に集まる人を目当てに様々なお店が出来て発展した場所で、甘味「夫婦善哉(めおとぜんざい)」もその一つです。1883年(明治16年)、法善寺の藤棚の下で、浄瑠璃語りの竹本琴太夫(たけもとことだゆう)こと木文字(きもんじ)重兵衛が副業としてはじめた「めおうとぜんざい お福」という名の店が始まりだと伝えられています。1杯の善哉を大盛りにするより、2杯に分けた方が量があるように見えるという目の錯覚を利用した、大阪商人らしい発想で提供され大ヒットしました。
こちらは1940年に発表された織田作之助の小説「夫婦善哉」で一躍脚光をあびることとなります。戦争により、経営者が疎開を余儀なくされ営業が一時期中断しましたが、とある料亭の主人が戎橋南詰(えびすばしみなみづめ)で同店を復活させ、1964年に今の場所に「夫婦善哉」を定着させました。夫婦やカップルで食べると円満になり、一人で食べると良縁に恵まれるという縁起物としてたくさんの人が訪れるパワースポットでもあります。夫婦善哉の世界に思いを馳せて、縁起を担いでいただきましょう。

なんばグランド花月

なんばぐらんどかげつ

なんばグランド花月
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大阪くいだおれの街を堪能したあとは、笑いの街を堪能してみましょう。大阪といえば上方漫才(かみがたまんざい)。その代表であり全国の笑いを制覇していると言っても過言ではない「吉本興業」の本拠地がここ「なんばグランド花月」です。吉本興業の立役者は何と言っても小説家山崎豊子の『花のれん』やNHK朝の連続ドラマ『わろてんか』などのモデルにもなった「吉本せい」です。夫の勧めで買った第二文芸館で興行を始めたのがきっかけで、寄席を全国展開していきます。落語中心の寄席(よせ)は、やがて物真似(ものまね)や、音曲(おんぎょく)、曲芸といったさまざまな笑いを吸収しながら、ついに全く新しい笑芸(しょうげい)、漫才が誕生します。商才あふれた吉本せいがこの漫才を誕生させ定着させたひとりだと言われています。
こちらのなんばグランド花月は老朽化したなんば花月に代わる劇場として1987年に新築開場しました。 お笑いの総本山ともいえるこの劇場では365日休まず色々な演目を上演しています。フォトスポットでの記念撮影や、よしもと芸人商品のすべてが揃うショップも大人気。笑いを求めて立ち寄ってみましょう。

大阪タカシマヤ

おおさかたかしまや

大阪タカシマヤ
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大阪タカシマヤは1898年に南区(現在の中央区)心斎橋筋で開業しました。京都の南店に続いて大型店を大阪に開業させた高島屋は、当時としては珍しい大型野外広告を設置し周囲に存在を知らしめました。その後、1919年の株式会社設立を機に1922年堺筋長堀に近代的な鉄筋コンクリートの大型店舗を建設します。しかし、1924年御堂筋拡張計画が発表され、メインストリートが堺筋から御堂筋に移動することになり、堺筋に出店していたデパート4店は焦りました。長堀に新店舗をオープンさせたばかりの高島屋でしたが、南海難波駅大ビルディング計画の情報を得て名乗りを上げ現在の大阪タカシマヤの前身にあたる「南海高島屋」を1930年に開店させました。他のデパートとの差別化を図るために、呉服店としては珍しく食堂経営に着手し、1938年に「東洋一の食堂」を開店させ人々の注目を集めました。
終戦直後の1946年、当時本店だった焼け残った大阪タカシマヤに卸部を新設し全国から物資を収集したり、文芸書、大衆雑誌の出版事業を行ったりと、今の高島屋を支えてきた重要な拠点でもあります。こちらの南海ビルディングは昭和の初期に建築されたルネッサンス仕様で、当時、近代の東京や、経済最大の都市である上海の建造物にも遜色ない壮大な建造物です。1930年当時の大阪の豊かさの象徴とも言え、大阪商人の勢いを物語る建物でしょう。この20世紀前半の記念碑的な建築物を眺めながら一休みしてはいかがでしょうか。

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