平和に思いを馳せる
「広島」エリアの観光音声ガイド
広島エリア紹介
広島の繁華街を歩いていると、近代的な街並みに不釣り合いな、ボロボロで鉄骨むき出しの建物が忽然と姿を現します。原爆ドームです。広島の人々は、原爆の悲惨さを後世に伝えるために原爆ドームをはじめ、多くのものを残してきました。それがこの周辺エリアです。
被爆後75年は緑が生えないと言われたこの土地も、今では水と緑にあふれています。復興を遂げて進化してきた街と、今も変わらず当時の様子を伝えるもの、その両者を肌で感じることができます。
A 原爆ドーム前駅
B 原爆ドーム
C 平和記念公園
D 原爆の子の像
E 元安川
F 広島平和記念資料館
G 広島国際会議場
H 平和大通り
I おりづるタワー
J ハノーバー庭園
A
原爆ドーム前駅
げんばくどーむまええき
原爆ドームの目の前に位置するこの駅は、別名チンチン電車と呼ばれる広島の路面電車で、広島電鉄の停留所の1つです。
広島市のシンボルとも言えるこの路面電車はなんと戦前から運行しており、原爆投下で焼け野原となった3日後には黒焦げの電車で運転を再開したといわれています。
当時は女学生が車掌を務めており、自身らも被爆した身ながら果敢に電車に乗り込みました。
「チンチン」と音を鳴らしながら市内を走った電車がどれだけ市民を元気づけたかわかりません。それから70年が過ぎた今でも、市民や観光客の足として広く親しまれています。
近年では路線ごとに新型車両も導入されており、原爆ドーム前駅を通る2番線の宮島線ではバリアフリーに特化した低床の車両を楽しむこともできます。
B
原爆ドーム
げんばくどーむ
電車を降りると目の前に見えるのが原爆ドームです。原爆の悲惨さを今に伝える建造物として、世界遺産に登録されています。今でこそその特徴的な天井のドームから「原爆ドーム」の名で知られていますが、被爆前は「広島県産業奨励館」という名の市民の誇りだった建造物でした。1945年8月6日午前8時15分、ここからほんの数十メートル先にある相生橋(あいおいばし)の上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。グラウンド・ゼロと呼ばれるこの投下地点周辺はまたたくまに3,000度の爆風に包まれ、その場にいた人は一瞬で蒸発し、骨も残らなかったといわれています。そんな中原爆ドームがその形を残せたのは、当時珍しい鉄筋造りで、かつ爆心地のため衝撃波がほぼ真上からのみだったためと考えられています。
C
平和記念公園
へいわきねんこうえん
原爆ドームの奥にある平和記念公園は、太田川と元安川(もとやすがわ)に挟まれた三角州一帯が公園となっており、「水と緑の街広島」を体感することができます。橋を渡ってすぐ、平たい石台とその上に燃える炎が見えてきます。「平和の灯(ともしび)」と呼ばれるもので、原爆投下当日に広島で生まれた7人の女性によって、戦後19年目の8月1日に点火されました。以来、核兵器が地球上からなくなるまで燃やし続けようという想いとともに、一度も消えず燃え続けています。その奥に見える原爆死没者慰霊碑(げんばくしぼつしゃいれいひ)には、『安らかに眠ってください あやまちは繰り返しませぬから。』という言葉が刻まれており、被爆死没者の名簿が納められています。毎年8月6日には平和記念式典が開かれ、被爆者や被爆者遺族のほか日本中・世界中から多くの人々が慰霊に訪れます。
D
原爆の子の像
げんばくのこのぞう
平和記念公園内を元安川(もとやすがわ)に沿って歩いて行くと、折り鶴を捧げ持った子どもの像が見えてきます。「原爆の子の像」です。またこの像の周りには、常時数多くの千羽鶴が手向けられており、遠目にも色鮮やかです。
今日では折り鶴は平和の象徴とされていますが、そのきっかけとなったのは佐々木貞子(ささきさだこ)さんという1人の女の子でした。貞子さんは被爆した2歳当時は大きな怪我もなく元気に成長していきましたが、それから9年後、小学6年生のときに白血病を発症しました。原爆の後遺症です。彼女は入院期間中、毎日出される薬の包み紙で鶴を折り続けました。千羽折れば願いが叶うと信じていたためです。しかしその想いは届かず、発症から8か月後に亡くなりました。彼女の死をきっかけにして、原爆で亡くなった子どもの霊を慰めるための像が建設されました。彼女の話は日本国内のみならず海を越えて広がり、今でも世界中から毎日のように千羽鶴が届けられています。
E
元安川
もとやすがわ
平和公園の東側を流れる元安川(もとやすがわ)では毎年、8月6日の夕方から夜にかけて灯篭(とうろう)流しが行われます。原爆で亡くなった方々を悼(いた)むとともに、平和への祈りを込めてたくさんの灯篭が川に放たれます。灯篭は川沿いの販売所で誰でも購入が可能です。また、元安川に架かる元安桟橋からは、広島のもう一つの世界遺産である「宮島」へ向けた直通フェリーが毎日運航しています。
ゆったりとした船旅ながら、電車を使うよりも早くかつ楽に宮島へ行くことができるこの航路は、その名を「世界遺産ルート」と言います。瀬戸内海の穏やかな風を楽しんでみてはいかがでしょうか。
F
広島平和記念資料館
ひろしまへいわきねんしりょうかん
平和記念公園内をさらに進むと、横につながった3つの近代的な建物が見えてきます。そのうち左側と真ん中の建物が平和記念資料館です。この資料館には、原爆が投下された当時の広島の街や人々の様子が写真や模型などの形で残されているほか、被爆された方の実際の遺留品なども数多く展示されています。ヒロシマは核兵器の恐ろしさを真の意味で知っている都市として、世界へ向けて非核化を呼びかけ続けています。その取り組みの1つとして東館3階では核兵器の危険性を学ぶことができます。さらに1階には「地球平和監視時計」という時計が設置されており、上段のデジタル時計は広島への原爆投下からの日数を表し、下段のデジタル時計は最後の核実験からの日数を表示しています。世界中から核がなくなることを願って、今日もこの時計は日数をカウントし続けています。
G
広島国際会議場
ひろしまこくさいかいぎじょう
平和記念資料館の対面にあるのが広島国際会議場です。この施設は、ヒロシマが平和都市としてより一層世界に開かれた街となることを目的に、1989年に建てられました。大小さまざまなホールでは連日、演奏会や講演会、展示会まで様々なイベントが催されており、広く市民に利用されています。特に毎年8月6日前後は平和を願うイベントが各ホールで開かれています。もちろん建物の名前の通り国際会議の場としても使われており、数多くの重要な国際会議でこの会場が利用されています。各国の主要人物に国際会議でこの地を訪れてもらい、世界平和の重要性を感じてもらう場所として重要な施設となっています。
H
平和大通り
へいわおおどおり
平和記念公園を抜けると、開けた道路に出ます。平和大通りです。市民の間では「100メーター道路」の名でも親しまれています。この道路はもともと、戦時中の空襲で火が燃え広がらないようにするための防火帯として造られましたが、圧倒的な破壊力を持つ原爆の前では全く意味を持ちませんでした。
戦後、様々な反対に遭いながらも再建を果たした平和大通りの街路には多くの木が植えられ、「70年は緑が生えない土地」とまで言われたヒロシマの復興の象徴となっていきました。今日では5月にフラワーフェスティバルという一大イベントが開かれるほか、クリスマスシーズンにはイルミネーションで彩られるなど、単なる「通り」であることを超えて市民に愛されています。
I
おりづるタワー
おりづるたわー
平和記念公園と平和大通りを楽しんだあとは、原爆ドーム前駅の方へ戻ります。次に向かうのはおりづるタワーです。原爆ドーム前駅からすぐ、原爆ドームの隣に位置するこの施設は、2016年にオープンした、観光客のみならず地元の人にも愛される施設となっています。ビルの屋上階は「ひろしまの丘」という名の吹き抜けの屋上スペースとなっており広島の自然を感じながらゆっくり過ごすことができます。ここからは原爆ドームや平和記念公園はもちろんのこと、天気がよければ宮島の弥山(みせん)まで望むことができます。12階の「おりづる広場」では、専用の折り紙でおりづるを折ることができ、折ったおりづるは併設されている「おりづるの壁」に投入することができます。おりづるの壁は、人々の様々な思いが込められたおりづるが積み重なることでできる壁で、ひらひらと舞い落ちていく姿は必見です。
J
ハノーバー庭園
はのーばーていえん
旧市民球場跡地の裏手には、ハノーバー庭園と呼ばれる緑地帯が広がります。ハノーバー庭園は、広島市の姉妹都市であるドイツのハノーバー市の名前が冠された庭園で、ハノーバー市にある「ヘレンハウゼン公園」の花壇の一部を模した沈床園(ちんしょうえん)となっています。また、この庭園全体がハノーバー市の紋章をかたどった形状をしているのも特徴です。同市は広島と同じく第二次世界大戦で壊滅的な被害を被っており、両都市の平和への祈りから姉妹都市提携へと至りました。ハノーバー市には空襲で天井部分が沈没した教会が当時の状態のまま現存しているのですが、その教会には広島市から寄贈された平和の鐘が吊るされています。