奈良の風情ある景色を満喫
「興福寺周辺」エリアの観光音声ガイド12選

興福寺エリア紹介
TOURIST Guide編集部
楠本和央

興福寺エリア紹介

こうふくじ
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興福寺周辺エリアは、1998年に世界遺産リストに登録された8つの「古都奈良の文化財」の一つ、興福寺を中心としたエリアです。興福寺国宝館には、興福寺の数多くの国宝と重要文化財を展示しています。中でも戦闘を好む古代インドの鬼神(きしん)で、仏法を守護する神「国宝 阿修羅像」は、必見の仏像です。また、興福寺の子院(しいん)であった宝蔵院跡は、日本を代表する武道「宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)」の発祥地として知られています。興福寺近くの猿沢池にはベンチがあり、人々の憩いの場となっています。猿沢池の湖畔から、枝垂れ柳越しに望む興福寺五重塔の姿は、古都奈良を代表する景色です。猿沢池には、猿沢池の七不思議とともに、この池に身を投げた天皇の女官 采女(うねめ)の悲しい伝説が伝わります。国宝と奈良の伝説を訪ね歩きながら、南都八景といわれる景勝地で心癒されるひと時がここにはあります。


興福寺

A 興福寺

興福寺 北円堂

B 興福寺 北円堂

興福寺 南円堂

C 興福寺 南円堂

興福寺 三重塔

D 興福寺 三重塔

摩利支天石

E 摩利支天石

宝蔵院流槍術 顕彰碑

F 宝蔵院流槍術 顕彰碑

猿沢池

G 猿沢池

采女神社

H 采女神社

五十二段

I 五十二段

興福寺 五重塔

J 興福寺 五重塔

興福寺 東金堂

K 興福寺 東金堂

興福寺 国宝館

L 興福寺 国宝館

スポット紹介

興福寺

こうふくじ

興福寺
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興福寺は、かつて日本を代表する貴族、藤原氏の氏寺でした。その起源は、669年に重病にかかった藤原鎌足(ふじわらのかまたり)のため、妻の鏡大王が病平癒(やまいへいゆ)を祈り建立した山階寺(やましなでら)です。710年に現在の地に移転し、鎌足の子、藤原不比等(ふじわらのふひと)により、興福寺と名付けられました。その後、北円堂(ほくえんどう)・東金堂(とうこんどう)・五重塔などが建てられ隆盛(りゅうせい)を誇りますが、1180年の平氏による南都焼討ち(なんとやきうち)で、ほとんどの建物は焼失します。その復興には、興福寺を拠点とする慶派(けいは)に属する天才仏師運慶らが参加しました。その仏像は、現在も興福寺に現存しています。創建時の和様が踏襲される興福寺では、天平時代の建築空間が体感できます。興福寺はまた、その長い歴史の中で、能や狂言といった芸能、運慶(うんけい)に始まる彫刻芸術、僧坊酒と食文化、奈良発祥の武道・宝蔵院流 槍術(ほうぞういんりゅう そうじゅつ)など、様々な伝統文化を生み出しました。毎年春・秋の2回、奉納される能楽は、たくさんの人たちで賑わい、幽玄な日本の美を伝えます。

興福寺 北円堂

こうふくじ ほくえんどう

興福寺 北円堂
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北円堂は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと称賛されるお堂です。興福寺創建者 藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなった一周忌にあたる721年に、元明太上天皇(げんめいだいじょうてんのう)と元正天皇(げんしょうてんのう)が建立しました。北円堂は、平城京造営の推進者であった不比等の霊を慰めるために、平城京を一望できる場所に建てられました。現在の北円堂は、1210年に伝統的な和様建築で再建されたものです。内部は普段非公開ですが、例年春と秋に特別公開されます。内部には奈良の天才仏師 運慶一門作の弥勒如来坐像(みろくにょらいぞう)・無箸菩薩(むじゃくぼさつ)・世親菩薩像(せしんぼさつぞう)などが安置されています。

興福寺 南円堂

こうふくじ なんえんどう

興福寺 南円堂
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南円堂は、平安時代初期の813年に、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父の内麻呂の冥福を祈り建立した、朱色の美しい八角堂です。
現在の建物は創建以来4度目の建物で、1789年に再建されたものです。
平安時代中期に、貴族である藤原氏の栄華は頂点に達し、藤原時代とも呼ばれました。その祖が藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)であり、南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。
鹿皮(しかがわ)を身にまとう本尊の不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぼさつぞう)は、藤原氏の氏神である春日大社の神使が鹿であることから、特に藤原氏の信仰を集めました。
堂内は普段非公開ですが、毎年10月17日の特別開扉の期間に拝観することができます。南円堂前には奈良の優れた八つの景色、南都八景(なんとはっけい)の一つ、藤原氏を象徴する藤棚があり、毎年4月下旬~5月上旬頃に美しい花を咲かせます。
南円堂の南には、鐘楼(しょうろう)が設置され、朝6時・正午・午後6時に、古都に風情ある鐘の音を響かせます。

興福寺 三重塔

こうふくじ さんじゅうのとう

興福寺 三重塔
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三重塔は、現存する興福寺の建物の中で、北円堂とともに最も古い建物として知られています。三重塔は、男性的なイメージの五重塔に対して、女性的で美しい小塔です。平安時代の1143年に建てられた三重塔は、その後、日本の氏族、平氏による焼き討ちで焼け落ち、鎌倉時代の1180年頃に再建されました。再建されたのは鎌倉時代ですが、その姿は平安時代の優美な建築様式を今に伝えます。初層の内部には、学問・智恵・音楽を司る女神、弁才天坐像がお祀りされています。内部は普段は非公開ですが、年1回の弁才天供の日のみ、特別開帳されます。三重塔周辺には地蔵菩薩の石仏が並び、夕暮れには、三重塔のシルエットが美しい空に浮かび上がる風情ある景色を味わうことができます。

摩利支天石

まりしてんせき

摩利支天石
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摩利支天(まりしてん)は、陽炎を神格化した女神で、護身・勝利を司り、日本では古来より武士を中心に深い信仰を集めてきました。今から約460年前に興福寺の子院、宝蔵院で創始した宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)もまた、宝蔵院の庭の巨石に摩利支天を祀り、武道の稽古に励んだといいます。摩利支天石は、興福寺三重塔の傍にあります。この巨石こそが、覚禅房胤栄が信仰していた摩利支天をお祀りされていた巨石なのです。摩利支天石は、元々は宝蔵院にありました。宝蔵院が1868年頃に始まった仏教文化破壊運動、廃仏毀釈で取り壊されるのと同時に、摩利支天石も一時放置されますが、地元の篤志家の元に引き取られ、112年の間、大切にお祀りされた後、1999年に現在の位置に寄贈されました。

宝蔵院流槍術 顕彰碑

ほうぞういんりゅうそうじゅつ けんしょうひ

宝蔵院流槍術 顕彰碑
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宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)は、約460年前に興福寺の子院、宝蔵院の僧・覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)が創始した、奈良発祥の武道です。覚禅房胤栄は宝蔵院に住み、
武芸を好み槍の修練に努め、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌(十文字)槍を工夫し、ついに摩利支天の化身から奥儀を授けられ、宝蔵院流槍術を創めました。さらに、柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守秀綱から刀術を学び宝蔵院流槍術を大成させました。
その槍術は、日本有数の槍術流派の基礎を築きました。宝蔵院は、明治元年の1868年頃より始まった仏教文化の破壊運動「廃仏毀釈」により取り壊され、敷地は後に奈良国立博物館の構内となりました。徹底した廃仏毀釈の対象は宝蔵院だけではなく、興福寺にも及びました。興福寺の経典が包装紙に使われ、五重塔は25円で売りに出されたというのは驚きです。その跡地には、宝蔵院の井戸枠と伝わる石組と、宝蔵院流槍術発祥地を顕彰する宝蔵院流槍術顕彰碑が残されています。

猿沢池

さるさわいけ

猿沢池
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猿沢池は、興福寺南側にある周囲約360メートルの池です。740年代に書かれた興福寺の記録には「作努佐波」と書かれており、サヌは狭い野、サハは沢で、「狭い野の渓流」という意味になります。
それはまた、猿沢池の呼び名にも受け継がれています。
放生会は、興福寺が殺傷を戒めるために魚を池に解き放つ儀式で、毎年4月17日に行われます。
池畔には柳が植えられ、ここから眺める興福寺の五重塔は美しく、古都の風情があります。
夜の「猿沢池の月」は、奈良の優れた八つの景色、南都八景の一つです。
猿沢池には、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」という七不思議と、悲しい采女伝説が伝わります。
采女伝説での猿沢池は、奈良時代に、帝に使えていた女官の采女*が愛を失ったことを嘆いて、入水した池といわれます。


采女*… 後官で帝の給仕をする女官の職

采女神社

うねめじんじゃ

采女神社
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猿沢池の道沿いにひっそりとたたずむ采女神社は春日大社の末社であり、奈良時代に天皇の寵愛が衰えたことを悲しみ、猿沢池に身を投げた、采女の霊を慰めるためにお祀りしたのが始まりです。その本殿は、池に背を向けた一般の神社では見られない形になっています。これは采女の霊が、身を投げた池を見るのが忍びないと、一夜で社殿が自ら西向きになったためと伝わります。采女神社にお祀りされる悲哀の采女の霊ですが、現在は自分のような悲しい恋に苦しまないようにと、縁むすびの神様となり、若い女性の人気を集めています。毎年、中秋の名月には、采女の霊を慰める采女祭が猿沢池で開催されます。この日、授与所(じゅよしょ)で「糸占い」が授与されます。月明かりで縫い糸に、この赤糸を通すと願いが叶うといいます。糸占いが手に入るのは、1年でこの日のみ。また、普段非公開の采女神社にも参拝できます。

五十二段

ごじゅうにだん

五十二段
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五十二段は、猿沢池から興福寺の境内へと続く五十二段の階段です。五十二段は、大乗仏教の教えの中にある菩薩の修行の段階を表します。菩薩の修行の階位は、一番下の信心に始まり、最高位の妙覚まで、五十二段階に分かれます。五十二段階目の妙覚は、悟りを開いた仏であり菩薩ではありません。五十二段の階段を一歩一歩上がり、興福寺に近づくにつれ、仏の境地に近づいていきます。五十二段を登りきると、そこには右手手前に五重塔、その奥には東金堂(とうこんどう)が見え、仏の庭たる興福寺の境内に入ります。奈良の夏のイベント「なら燈花会」の期間中には、一段一段に灯りが灯され、幻想的な風景を夏の夜に浮かびあがらせます。

興福寺 五重塔

こうふくじ ごじゅうのとう

興福寺 五重塔
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興福寺の五重塔は、古都奈良のシンボルとして親しまれる高さ50.1メートルの仏塔です。京都の東寺にある五重塔の次に、日本で2番目に高い木造の塔になります。悟りを開いた人の骨を仏舎利(ぶっしゃり)といい、塔には仏教の開祖、釈迦の遺骨を納める仏舎利塔の意味が込められます。現在の五重塔は、730年に興福寺の創建者、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘、光明皇后(こうみょうこうごう)により建てられ、その後、度重なる被災による再建を経て、1426年頃に立て直されたものです。創建当初、光明皇后は初層(しょそう)の四方に、薬師浄土変(やくしじょうどへん)、釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を、各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置したといいます。浄土変とは、仏や菩薩の住む国土の様子を描いたものです。その伝統にならい、初層の四方には薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されています。

興福寺 東金堂

こうふくじ とうこんどう

興福寺 東金堂
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興福寺に3つ存在した金堂のうち、東に位置する金堂です。
東金堂は、奈良時代前期の726年に、聖武天皇が元正天皇の病気平癒を発願して建立し、度々火災にあいながらも再建されました。
現在の姿は室町時代中期の1415年、6度目に再建されたもので、初期建立時の天平建築様式を継承しています。
堂内には、重要文化財の本尊・薬師如来像(やくしにょらいぞう)、日光・月光菩薩像、国宝の文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)、維摩居士像(ゆいまこじぞう)、四天王像、十二神将(じゅうにしんしょう)が安置されています。

興福寺 国宝館

こうふくじ こくほうかん

興福寺 国宝館
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国宝館は、僧侶が集団で食事をする食堂(じきどう)があった場所に、1959年に建設されました。地下には、奈良時代以降の旧食堂(きゅうじきどう)の遺構(いこう)がそのままの形で眠ります。国宝館では、奈良時代から興福寺に伝わる数々の国宝の仏像・絵画・工芸品・歴史資料などが収蔵されています。中でも天平(てんぴょう)彫刻の傑作として知られるのが阿修羅像です。阿修羅は、乾漆八部衆立像の一体として伝わります。八部衆は、インドで古来より信仰されてきた異教の八つの神で、仏教を守護し仏に捧げものをする役目をつかさどります。阿修羅は、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。

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